偽善者ぶる為善者、すなわちツンデレの謂われ

 昔「怖いのは音楽が流れていない部屋」とうそぶきながらパチンコ玉と引き替えに景品として得てきた、つまりはそうやって得られる程度のもはや唖然ともしない畑の肥やしにもなり得ないようなJ-POPを象る有為の銀盤を機械に任せて擦らせる音がお香の控えめな匂いと煙とともに立ちこめるヴィレッジ風非ヴァンガード的アパートの一室に立ち寄って座卓を囲んで何人かと談笑したこともあったが別段そのような趣味はなく気がついたら何も聴かずに一日を過ごしてしまうことも珍しくないし、最近では引っ越しに伴ってかつての1.5倍程度部屋が広くなり、また物同士の密集を避けできうる限りの整頓を心掛けているため自室暮らしの中心点である座椅子から微妙に、指先数本分ではあるもののプレーヤーの位置まで遠くなったのでディスクを交換するのが億劫になり、同じものを意味もなく入れっぱなしだったりすることもしばしばだからという消極性によるものばかりではないのだがとりあえずここ一週間くらいは『memory almost full』ばかりを聴き(いや、普通に『ちっぱいぱんCD』とかも聴きますが。「すかっとうーまん」はひとつの発明だ。学生時代より心の裏襞におけるScatman Johnリスペクトを絶やしたことはついぞなかったのでひとしきり笑ったあと泣き、悶えた。「ぶゆーでん」は発表の時点ですでに腐りはじめていたネタであり空寒さを禁じ得ないが最後は「もう、しょうがないなあ……」とひきつった微笑みに帰結する。とにかく全体的にひどいアルバムだと思う。実にまずい、もっとやれ)、買った翌日などは曲を思い浮かべようとすると申し訳なさげに"Fine Line"などの前アルバムの曲が頭をもたげてきたのが最近では自然にメロディや声や音の雰囲気が再現されるようになった。良質で、聴衆に働きかけようとする艶もあり、いくつか感動的な瞬間に立ち会うことができるのは確かだが、そのぶんアルバムを貫く緩やかな構成に鬱陶しさを感じることもなくはない(少なくとも『Chaos and Creation in the Backyard』は全編をフラットに受け流すことができた。むろんダレていることに気がつかずにアルバムが終わっていることもあるわけだが。いずれにせよ二作つづけて感触やベクトルのまったく異なる、しかもそれぞれ傑作と判じても差し支えない出来のアルバムを上梓したことに関しては賞賛を惜しむ必要はない。音楽の前では好みなど二の次だ。同時に好みなど音楽のあとについてくるものでしかなく、それゆえ杜撰ささえ度外視すれば「好みだけが物を言う」と断定しても誤りではないのだけど)。それでも"The end of the end"を歌い上げ、その余韻を"Nod your head"の粗い歌唱で粉々にしたあとのわずかな空隙には「ポール、はじまったな」という確信めいた呟きを刻まざるをえない。むろんそれは敵をでっちあげしきりに身なりを気にしながらおずおずとおうかがいを立てその実何の変化もその兆しさえ胚胎しない空疎な「2.0」的身振りではないだろう。で、感化されて久々に"So bad"の映像などを見ていたのだが……(演奏を担当するPaul,Linda Mccartney,Eric Stewart,Ringo Starrの四者全員が揃うこの映像には昔からなぜか弱い……さりげない幸福感が満ちているように思う)リンダのコーラスの欠落があらためて思い起こされたという感じだ、特にこのアルバムを聴いたあとでは。

 『Bullet Butlers』が出る前にブランド前作『あやかしびと』をコンプしてやる……とかいつまでも「瀬戸口廉也の最高傑作は『SWAN SONG』のTGヴァージョンだ」などとほざかずに雪が融ける前にさっさと本編を読んでおこう……とかねこねこが解散する前に再販のとき買った『みずいろ』くらいは……とかいろいろ考えていた時期もありました。本当にまずいことになりつつある。生活を自重しよう、とここに記す。

 パスカルキニャールによって田中ロミオ佐藤亜紀がつながった。あるいはスラヴォイ・ジジェク大江健三郎によって田中ロミオ飛浩隆がつながった。結論からいえば心の貞操はすでに捧げているというわけ。