ニコニコ動画で某首相辞任を知った。岡田斗司夫Gyao(「世界征服宣言」というひとりしゃべりの番組を何度か単発でやっていて、九月から「ひとり夜話」とタイトルを変えレギュラー化したのだけど、web放送で視聴者からのチャット・メッセージを交えながらです・ます調の標準語により一時間燃焼のテンションで話すという絶妙な距離設定のせいか、おどろくくらい抵抗なく観られる。適当に世事や最近のオタク文化に疎いのも面白い)を見終えてからそこで言及されていたアメリカザリガニ・柳原とOVERDRIVE・石野によるラピュタ漫談(?)を見るためにトップページを開いたところで当該の動画に出くわして「えっ」と一瞬固まってしまったわけで、まあなんか極まっちゃってるのかもなあとは思うのだけどその感慨も時間をおいてふとした瞬間に留保の余白として染みを落としたという感じでさっさと文字の隙間に埋もれてしまった。

 で、いま樫村愛子の『ネオリベラリズム精神分析』を読んでいて、これもまあ例のごとくアンテナが低いせいで最近その出版を知ったのだけど書店で見かけたときは郡司ペギオ-幸夫のときと同様「この人がついに新書で!」との驚きと興奮で一瞬書店の本棚から溢れんばかりの新書の粗製濫造状態に感謝しそうになった(が、結局しなかった)。むろんどちらの著者もそのような粗製濫造には決して荷担すまいとの無根拠な確信というか先取りされた信頼を抱いてのことだ。目下第四章の途中で、第三章までの議論の蓄積によって個々の社会現象を具体的に検証している。ときおり何かを前提にして話を進めながら、その前提を了解済みのものとして、詳細に示すことなく次の議論や検証へと移っていくため下手すると恣意的に映りかねない部分もあるのだけど、全体を覆う著者の闘争しながら縫い進む感じ、読みながらこちらの経験や思惟の残片が刺激され、掻き集められ、組織され、炙られ、炒られ、また分解されていくその熱量(文章自体が熱いのではなくむしろ平易かつ淡々と様々な言論や社会の現状、ローカルな現象のあいだを行き来している)によってむしろそれは(真摯な者が新書という媒体を選び取るときに当然後ろ側に張り付いてくるべき欠点であると同時に)よいフックとなりこの本は新書のパッケージに収まることなく外側へと開いていくということになる。この本を読み終えたとき、あるいは読みながらでもこれにつづく本、つながっていく議論へと読者はおのずと導かれていけるだろう。