岡田利規の小説が大江健三郎賞を受けた、との報せ。え、もうそんな季節なの、とまずそのことに驚いたりもしたのだが、ともかく前回の長嶋有につづいて、しかも今回はまったく予想外だったこともあって非常に喜ばしい限り。岡田氏の小説を読みながらベケットがふと頭をよぎる……のはその書かれ方に引き寄せられてしまったからではなく(それもあるが)、彼が最近ラジオドラマ『カスカンド』を演出したことを知っているからでもなく(当然それもあるのだろうが)、十年近く前に読んだベケットの受容にまつわるある小話が記憶の隅に残っているからだ。ある日どこかでベケットを愛読する日本人とイギリス人が彼の作品についての話題を交わす機会を得る。だがしばらくするとどうも話がいまいち噛み合っていないことにお互い気がつく。それもそのはず、日本人はベケットを小説家として、イギリス人は劇作家として認識していたのだ。しかも前者は『ゴドー』程度は読んではいるが、後者はベケットが小説を書いていたことさえもろくに認識してはいなかった。そしてイギリス人曰く本国全体での受容のされ方もまた概ね大差ないという……。もちろん彼の話をそのまま真に受けるわけもないし、お国柄みたいなものに敷衍することもできないのだが、しかしベケットだったらありうるかも、と思わせるものはある。つまりは岡田氏には劇作家でありつつ小説を書きつづけてほしいし、当然そうするであろう、そして彼の小説は彼の演劇と踵を接しながらもまったく別の物として、むしろ積極的にその身を引き剥がし消去してしまうようなものとして読まれるにちがいないし事実そうなってしまう、ということにすぎないのだが。