パンダサソ〜、パンダサソ〜

 『ノーカントリー』を観た翌日に何の気なしに『悪魔のいけにえ』を観ていたら、冒頭でいきなり若者たちの乗るバンが屠殺場の前を通りかかり、中のひとりが「昔はハンマーで脳天を割っていたがいまは空気銃でボルトを撃ち込むんだ」と身振り手振りをまじえてやたら熱っぽく偏執的に語りはじめたので思わず大笑いしてしまった(そして襟を正し椅子に座りなおした)。符合というか、明滅する三十数年越しのバトンパスの連鎖の道筋を目の当たりにした気分。劇場で観ているときは(正確には観終わったあと反芻する記憶の中で観ているときは、だが)茫漠と『ゾディアック』やらフアン・ルルフォやらのことを考えていたのだけどね……。


 考えれば『ノーカントリー』のあのアンチクライマックスぶり、圧倒されながらもどうにも落ち着かないあの観後感もまた『悪魔のいけにえ』の胸をなで下ろしながらも「え、いいの?」と呆気にとられてしまう放置全開のラストを彷彿とさせなくもないかも。テキサスが舞台だし(前者はコーマック・マッカーシー原作なのだから西部劇といって差し支えない。川の中を犬に追い立てられる場面は劇中もっとも興奮させられた)。しかしアントン・シガーと違ってレザーフェイスは誰かがその役を演じているという感じがまったくしない。薄汚いお手製マスクとエプロンを纏ったもじゃもじゃ頭の謎の巨漢は唐突にそこにいて、滑稽味さえ感じさせる大仰な動作で有無を言わさず襲いかかってくる。そして動作と動作の隙間に垣間見せる人間くささ(ぼんやりしていたり、標的の女性の悲鳴にびくっと身体をすくませたり)……もうキャラ立ちしているどころの騒ぎじゃない。作り込めば作り込むほどリアルになる、というのは『悪魔のいけにえ』の作品性そのもの。その恐怖、おどろおどろしさはもうほとんどコミックの域に達していると言っていいが、決して皮膜の向こうへ突き抜けてしまうことなく、並び立ちながら世界を観客とスクリーンのあいだにあらしめる。そしてフィルムが途切れたあとも映画の中のあの土地に、あの屋敷に狂った家族たちとともに存在しつづける。ドキュメンタリー風の画面構成はあくまで入り口でしかないのだ。出口はない。……ところで車イスに乗った父親に女を殴らせようと息子が何度もハンマーを握らせ、しかし結局振りおろすどころか握る力さえなく取り落としてしまうあのシークエンスは何度見ても胸を締め付けられる。だってじいさんほとんど干からびているのにうっすら生気があるんだよ!


 で……やはりアントン・シガーはよいキャラクターだし、妙な潔癖さとかルールが一枚岩ではないところとかまあ好きではあるが、どう見てもうまい俳優が演じているようにしか見えないし、もちろん映画としてはそれでじゅうぶんであり、それ以上のものを求める必要もないしべつだん求めないのだが、全編の思わせぶり、殺しの場面をわざと見せないところだとか主人公であるところの保安官の物語の処理の仕方とかいくつか釈然としないところと併せるとなんか作品それ自体には中途半端な印象が残ったのも事実。ルルウェン・モスが犬から逃げつづける映画だったら最高だったのに。それでも見終わったあとから『悪魔のいけにえ』を経て緩やかに印象は良くなってはいるし、アメリカ映画っていまだ特別なおもしろさがあるなあ、としみじみ思わせる上出来の作品であるには相違ない(コーエン兄弟はやっぱり好きになれそうにありませんが)。まあその前に観た『ダージリン急行』の方が何十倍もすばらしいのだけど……単にこの二本が久々に見たアメリカ映画だったというだけ、ではあるものの(映画の序盤、次男の書いた小説を読んだ三男がトイレで忍び泣くところで「もう死んでもいい!」と思った。それ以降はもう言わずもがな。ウェス・アンダーソン映画のスローモーションはなぜこんなにも泣けるのか?おそらくそれは映画の重力として画面に現れているからだろう。いくらでも嫌味に、お洒落に処理できてしまえそうなこの映画をまったく逆のものとして仕上げる。さっすがわかってるねぇ、とは安易に言わせないその頑固さこそ本当に信のおける数少ないものだ)。


というわけで……

いつでも観られるようにあくまちゃん店社歌をここに置いておこう。最高だよね。飽きる気がしない。今年のベストでしょう。モフモフモフモフ……