一部映画館はいまだ心入れ替えることなく観客を映画泥棒扱いしている。しかしいったい映画を誰から盗むというのか?その場合盗まれる映画ってのはなんのことだ?そもそも何度観ようと決して映画を所有できないがゆえに無理を押して、万難を排し、不愉快な仕打ちにもめげることなく足しげく劇場に通うのではないのか?フィルムのことならばそりゃただのフィルム泥棒だし……。権利を主張するならば正当なことだろうから遠慮なくそうすればよろしいでしょう。恫喝しながら最終的には受け取る側に下駄を預けるだけって。どういう事態なんですかこれは。


 『ノーカントリー』の前にも日本映画の予告を四本くらい強制的に見せられたので「自分の知らないところでこのような映画が作られ、そして消えていくんだなあ」という刹那的な感傷でひたすら苦痛をやり過ごしかなかった(『砂時計』なんて「あの美しく瑞々しい夏帆だって十何年かしたらこんなうっとうしい変な女になるんだよ」という押しつけがましい訳知り顔の嫌がらせでしかないじゃんか!宮崎あおいが出ていた『好きだ、』を思い出したけど、あれは永作博美だったか……まあ『人のセックスを笑うな』を観たあとだから永作氏なら別にかまわないかと思えてしまうがおそらく記憶の改竄が行なわれているでしょう)。で、ようやく終わったと思ったら例のごとく映画泥棒扱い。パラノイアですか。梅田で映画を観たら『迷子の警察音楽隊』の予告を何度も見せられるしね……。わざわざよその劇場の宣伝なんてしてあげるなよ!もう。


 とりあえずなんだかいろいろと間違えている。つまらない映画の予告を面白そうに作るのはかまわないが(『ヴァンダム inコヨーテ』最強)、『ペルセポリス』や『エコール』を「ガーリー」で売ってもしょうがないし、『ここに幸あり』を癒しだとかハートウォーミングだとかの言葉で飾るのは逆効果じゃないか。どん底の環境で翻弄されながらも悲惨にならず「ノンシャランと」生活する人物たちをとらえる視線はどこか突き放したような冷酷ささえ感じるし、脚本の構成が知りたいくらい運動を絶やすことなく玉突き的に出来事が起こる(すごいシーンがあった。往来で主人公が車に当て身を食らいそうになるところをすんでで避け、そのまま止まることなく別の方向から来た友だちの車に乗り込み発進するのだ)。主人公の周りには親友の持ち物さえも懐に収める手癖の悪い人間がいたりするし……。まあここで癒されることもこの映画は許してくれてはいるのだけど、でもやっぱりそんなひとときの気まぐれに留まらない、滋味深く、そしてそれ以前に過激でむちゃくちゃ面白い映画であることは強調してしすぎることはない。この映画が大盛況でロングランになるような国だったらいいなあと本気で思う。まあありえないのですが、とはいえせめて宣伝はできるだけ正確に、くれぐれもアピールの仕方を間違えずにやってほしいものです。