「監督の意図」なんて忖度したってしょうがない

 Tony Scott『サブウェイ123 激突』を観たので覚え書き程度に。当日にぼんやりと映画館のタイムスケジュールを開き閉じを繰り返しているときにいくつかこの映画の評判を目にしていて、曰く「カップルにどうぞ」だの「70点の手堅い出来」だの手ぬるいものばかりだったのだけど、それで逆に確信を深め観に行ってみたら……ぜんぜんちがう! いや、たしかにクライム・サスペンスとして観れば(すなわち同じ原作の日本版リメイク風で、国内最後の三助とかいう人が虚ろなフェイスで主演していた執行代理人・真下Xの儀とかいうヤリ逃げサスペンスと同じカテゴリーで把握するなら)まあ順当な感想とも言えるし、他人にはそう説明するしかないような気もするけど、しかし劇場で目撃したものはそんな生っちょろいものでは断じてなかったとひとまずは明言しておきたい。が、明言するだけで終わりそうな気もしないではない。まず見逃したくないのはこの映画の八割方がわずか開始五分足らずのアヴァンタイトルで「事実上」終わらされているという点だ。早回しとスローモーションによって目まぐるしいまでに次々とカットが刻まれ、並べられ、折りたたまれていくこの速度が、しかし臨界に達する寸前であたかも劇中の地下鉄の動きを模するかのように映画は大きくガタンと揺れ、それからは意外なまでにリニアに、過剰さを装うことなく既知の終着点へと進んでいく。物語も、犯人像も、人物描写も、あるいはサスペンスさえ過剰とは無縁だ。唯一振れ幅が大きいといえるのは渋滞するニューヨークのど真ん中を疾走し、ついには激しく弾け飛ぶパトカーくらいかも知れない、あくまで地下鉄ではなく。
 劇中に象徴的なやりとりがある。デンゼル・ワシントンは犯人(ジョン・トラボルタ)が地下鉄からかけてきた無線を偶然受けてしまったことからなし崩し的に交渉役に指名されてしまうのだが、そのことについてトラボルタが半ば挑発的に「運命の出会い」と称しても、ワシントンは頑なに「偶然だ」と言い張り、その挑発に乗ろうとはしない。ここでワシントンに作用したのは「慎重な性格」や「正確な状況判断」ではなく、説話論的ともいいうる倫理だろう。また何度かのやりとりでトラボルタがカソリックであり証券マンであるという可能性を探り、そのことを交渉の引き継ぎに来た刑事に告げるところで、始終神妙な顔をしている彼の嫌味な上司がそのワシントンによる洞察を茶化すようにたしなめるのだが、ここでも同じような倫理が働いていると見ていいのではないか。
 なんか、そういうところばかりを見ていた。これ以降にも説話論的倫理はネズミや、地下鉄走行時に巻き起こる風や、大きめの牛乳に姿を変えて映画のところどころに顔を出す。ほかにも見所は多い。注意して、観に行ってほしい。