今日のご覧の有様

 起床から一日を追っていこうと思う。

  • 7:10

 起床。昨日寝るギリギリまで書きかけてふと我に返りそのいっさいを忘我の果てに放り投げた一連の記述の醜悪さ、浅ましさを思い、嗚咽をおぼえつつ自動着衣装置に深く腰を沈める。炭水化物に口内の水分を奪われ、時が白濁をはじめる。

  • 7:53

 もんどり打ちながらも移動開始。白痴という問題系。タイムラインを見ているだけで様々な見解の断片、リンクの文字列が流れてくる。見たり、見なかったり。見ても最初の数行でどっと疲労が押し寄せ、あとは一気にスクロール。たとえばある日どこかで発明されメディアを介して広がった「クソゲー」という概念はプレイヤーにゲームの新たな楽しみの視座、自己慰撫の口実を与えたが、それと同時に理不尽な時間に耐え、過酷さへの想像力を促し、ついにおのれ自身が純粋に試み、反復し、諦め、また再開するただゲームする装置たりうる機会を、奪うとまでは言えなくとも、その敷居を上げ、間口を大きく狭めた、とは言える。で、白痴だ。まあ……つまり馬鹿だと言っているわけだ。誰を。ゲームのヒロインたちをだ。なんて罰当たりな。その発想はなかったよ! これは本当。正直、意味がわからないのだ。『TO HEART』を経ることなく発売からちょっと遅れて『ONE』に触れ(むろんそれ以前のleafALICE SOFT、elf、Cocktail Soft等々にはじゅうぶんに触れている言わせんなよ恥ずかしい)、それを大いに楽しんだあとに(とはいえコンプリートなぞ望むべくもないのだが)Web上で『Kanon』に関する目を覆わんばかりのアレやナニやソレやドレを見せつけられて完全拒絶に至り、もうちょっと前まであんなにかわいいものはないとさえ思えていた"いたる絵"さえ受け付けなくなり(あくまで『Kanon』に限るが。当時はこのブランドを跨いだ二作にそこまで連続性を見てはいなかったし、またそう見る意義も特段感じていなかった。しかしすでに"いたる絵"は発見していたわけだ)、『AIR』はしばらく発売していることにさえ気付かなかったくらいの遮断っぷりだったわけで、まあおそらくそのあいだにほとんどの論点は出尽くしてしまったのかも知れないが、幸か不幸かそんなこと知る由もなかったのだった。だから白痴というキャラクターに対するカテゴリーというか大雑把な把握がゲームをプレイする体験の中で自明視されることもなかったし、否定されるためだけにわざわざ引き合いに出されることもなかった。

  • 8:45

 移動を中断しつつ……。DC版ではあったが『AIR』に至るきっかけは、まあくだくだしく記述する意味もないだろう。ひとまず銘記すべきは、某テレビ番組にてさりげなくしかし明らかにあるイメージの動員を目的としてカメラの差し向けられたある中学生の個室の壁に貼られた三ヒロインの肖像(OP映像にひとつずつ挿入されるあの三様の立ち姿)があまりに神聖で、荘厳で、まるでイコンであるかのように見えた、そこにあらかじめ存在する象徴的物語をイメージとして読みこむ前に、しかしある種のマチエールとして現前していた……という事実のみ。ここに萌えはありますか、と問われるなら、イマも昔も"NO."と答えるほかないだろう。というわけで三度"いたる絵"の登場と相成るわけだ。

  • 11:05

 すでに意識はとぐろを巻き、あ、いや、めんどくさ。ところでこのブログのことを省みてみると、はじめて『AIR』に言及したのは2005年であるらしい。→2005-02-12 - a piece of coco fudge - So tough たぶん読み終えてから一年は経過していまい。さすがに「遅っ」とわれながら思うが、気付かなかったのだから仕方がない。で、その感想は【泣かせるためには親をも殺すかのごときいわゆる「泣き」ゲーの代表作とはとても思えなかった】というもの。つまり白痴というカテゴリー認識(リテラシー? デリカシー?)はなくとも、泣きゲーというカテゴリー認識はすでに存在していたわけだ。だがかろうじて存在しているだけで、その意味はいまだによくわかっていない。このページによるとこういった作品群がそれに該当するらしいのだが→泣きゲー - Wikipedia→まあ何というかこれアンサイクロペディアに書いてあればそのまま笑って看過できたよね、というくらいに無茶な代物ではある。しかしながら過去の自分にわざわざ「泣きゲーとは思えない」と記述させたものは何だったのか、というわずかばかりの思いはあるものの、すべてはどうでもいい。歴史認識には疎いし、なるべく距離を置いていたいのだ、かつてとある文章の中でうっかり、というわけでもないのだが、さして意識することなく「意識の流れ」と記述してしまったばかりにただちにジョイスやウルフに接続され、半可通の文学主義者呼ばわりされた挙げ句にお前の持ち出す歴史など個人史の寄せ集めにすぎない、などと罵倒されたこともあるので、まあ……特に腹も立たなかったが、後日、謝ってきたので鷹揚にその言葉を受け入れつつ、「頭痛に効く音楽ってないかな」という質問にフレンドリーかつ積極的にクセナキスをお薦めするというささやかな復讐というか爆弾を仕込むくらいのことはしたけど。

  • 13:00

 『ゲゲゲの女房』は(本当に)どうでもいいとして、とりあえず『AIR』に限った話をすると、したとしても、そのヒロインたちを白痴と認識することは、ユーザーの俗情と結託したそういう教育がありうるということを知悉する現在の目からでもほとんどできない。たしかに神尾観鈴の「セミセミー」に引くのはわからなくはない。話を聞けよ、と思う。「がお」にはおどろいた。でも「がおがお」には苦笑しつつ和んだ。「にはは」はなんだか懐かしい。「ぶい」はもうひたすら楽しい。……つまり出会いの印象はそうだった。ひたすら表面的で、刹那的。過去のエピソードだって、他人の語るトラウマがつねにそうであるように、辻褄だけが合う、とってつけたもので、現在性には著しく欠ける(http://twitter.com/rakanka/status/6434127635)。そもそも『AIR』はゲームだろう、どれだけ幼く見えても「18歳以上」ということにされるキャラクターたちだろう、そういう作法を身につけているはずだろう。なぜそのことを都合よく忘れ、首を差しだすふりをするのか。『AIR』終盤においてたしかに神尾観鈴は幼児化していく。問題にすべきは突発する謎の奇病としてのシステムだと思うのだが、それはともかく、この幼児化という「事態」は序盤の「印象」と同列に捉えることはできないはずだ。ここまでキャラクターに付き合い、物語の中を進んできたならなおさらだろう。だが白痴の一言のもとにそれらが一緒くたにされている。納得がいかない。物語を読め、というのではない。因果を紐解け、というのでもない。ただあったことをなかったことにだけはするな、ないものをあると嘯くな、というだけだ。

  • 17:25

 午後の予定は絶不調。書きたいことは本当にこのことだったのか……。そしてほぼ無意味な時間による記述分け。まあ、随時、ままよ。