2000年代、とある私的空間における時評風の文章片より

 というわけで発掘してみた。しかし、いったい、これは……。

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 人々が日本的な責任のあり方を否定的媒介に、よりいっそう日本的ともいえる「責任のあり方」に逃げ込んでいる光景を見ていったい何を思えばいいのだろうか。その韜晦に満ちた文の連なりを、ブラックでもジョークでもないひたすらありふれた粗雑なだけのイデオロギー(ふうに組織された単語の群れ)をかりにひとつ無視したところで、もはや視界のほとんどは真っ白な暴力とでもいうべき諸々の言葉で溢れ返ってしまっている。活字離れだって?たしかにグーテンベルクに象徴される「活字文化」は衰退の一途をたどっているように見えなくもない。しかしいまほど言葉が、文字が氾濫している時代はかつてなかったのではないか。テレビ番組においても、webにおいて、ゲームにおいても、夥しい量の文字が現われては消え、消えては現われをひっきりなしに繰り返している(対応する事例を手短にあげれば、ヴァラエティ番組の字幕、日記サイトや巨大掲示板、ノヴェルタイプのアドヴェンチャー・ゲーム)。貨幣のごとく高騰しきった言語的状況ではもはや言葉は子供の集めるバッジやメンコと同程度のものでしかありえないだろう、おどろくほどすんなりと交換が行なわれ、互いの手の内に収められた色とりどりの持ち駒は、増えるか減るかというふた方向のベクトルしかもちえない。

 ところで奇妙なのは唐突に「偽善者ぶった輩」に対する違和が表明される点だ。いや、その違和自体はありふれているどころか、偽善を排し、ネガティヴな形で露悪主義を共有しつづけてきたきわめて「日本史」的な、日本国民的な態度をきれいになぞっているとも言える(「偽善者ぶる」という二重否定的な語法は、そのまま受け取るならたとえば夏目漱石の『三四郎』に見出されるような「偽善家」――みずからの外面を従来的な「偽善」のイメージになぞらえて流通させる人々――を指示しているように思われ、一考の価値はありそうだが、おそらくは直後の文から単純な誤謬と判断して差し支えないだろう)。むろん偽善を厭うこの国の風土そのものが奇妙だということもできる。偽善は関係への意志である。その意志を「実現不可能な夢想」だと揶揄し、斥ける否定的な態度によって緩やかに連帯しようとする露悪主義者が望んでいるのはあくまで現状維持であり、関係の放棄でしかない。その意味では「中途半端な平和音頭」(理念なき偽善者)と同様に思考停止の印象はぬぐいがたいものだが、しかしまだ「平和」という言葉を意識しているぶん後者の方に発展性が望めそうな気がしてしまうのだ。「吐き気」もまた身振りである。彼らが偽善者を疎んじるネガティヴな身振りによってあっさりと連帯していることにまずは注目せねばならないだろう。

 ブラック・ジョークと露悪趣味はたしかに似ている……むしろ出来の悪いブラック・ジョークは露悪趣味しか生み出さない、とでも言うべきだろうか。それはなぜか肯定的評価として用いられがちな「毒舌」という言葉とともにあくまで共同体の容認するイメージでしかありえない。自明性を前提とした場所での符牒的な差異の記号であるという意味で、なるほど、埒もない本音一元主義とそれを支える奇妙な潔癖さはweb上に乱立する疑似サロン(知性なきサロン)に掃いて捨てるほど転がっているといえるだろう。ブラック・ジョークは共同体の容認するイメージに回収された瞬間にジョークであることをやめ、差別へと変わる。たとえば筒井康隆の「無人警察」がなぜ作者の断筆(パフォーマンス)を促すような騒動を引き起こすに到ったのか。実情はともかくここで問題にしたいのは、脳波を測定することでてんかん質の人間が運転するのを取り締まるロボット巡査に慄きながら主人公が独白する《わたしはテンカンの素質はないはずだし、もちろん酒も飲んでいない。何も悪いことをしたおぼえはない》というくだりが「てんかん=悪いこと」という差別的な図式に直結しているということでは決してなく(表面的な文のレヴェルにおいてはちょっと無理のある読みだろう)、共同体の容認するイメージにあくまで従順に、しかも飲酒や悪事と並列させることでてんかんとその患者を外部に排除するかのような構造をとっていることなのだ。この小説で実際にてんかん患者が傷ついたかどうかはこの際問われなくてよい。筒井に差別の意識があったかどうかはさらにどうでもいいことだ。てんかん患者は存在する。差別は存在する。ここで忘れるべきでないのは流通するのはイメージだけだということだ、そして対象のイメージ化はほとんどのばあい言葉をとおして行なわれるのだ……。

 「北朝鮮問題」に関する一節は差別とは何のかかわりもないように見える。ここで蛇足的に注記しておくと、件の一節に対する「擁護」者のひとりが例にあげている某アニメ=『SOUTH PARK』において頻発する幼稚な暴力表現は、共同体の容認するイメージを極端にデフォルメ化する戯画化の技法として容易に了解可能なものだ(しばしば安易に流されることも事実だが)。いわば偽悪主義とでもいうべきもので、居直るだけの露悪主義とは一線を画すものであり、偽善と背中あわせの「意志」をうかがうことができる。作品としての評価は不問に付しておくが、少なくとも「書くこと」の責任と「読むこと」の責任を混同させて自己正当化に勤しむような態度とは縁遠いであろう。むろん「差別」表現が流布しているからといって差別が許されるという法はない。詳述はまたの機会にまわすが、「受け手の責任」という提起自体はそれなりに有効なものだし、社会的弱者をたてにした抑圧への違和も理解できぬではないが、それらがはじめから一元的な居直りと諦念に落とし込むためにしか機能しえないような限界設定のもとに示されているようにしか見えないのはいかにも西欧的な悪しき弁証法という感じで苦笑を禁じえない(が、それが密やかに噛み殺された視霊者の笑いでないと誰がいえようか?)。

 人の数だけ多種多様の意見がある……はずなのになぜかあらかじめ水面下で結託していたかのように彼らの多くが「責任」を過失に結びつけてのみ論じようとしている様もまた奇妙だ。責任をただ「起こってしまったこと」に対する身の処し方としてしか捉えられないならば、そこから導き出される責任の帰結は「償い」や「事態の収拾」といった仲間の顔色をうかがう村の儀式にしかなりえないだろう。しかし責任のレヴェルにおいては「過去」など基本的には存在しえないのだ。『ゾンビ』のように死者=過去は何度も土を掘り起こし甦ってくる、あくまで死者として。そして彼らは昼夜を問わず人々の生活空間を、巨大なショッピング・モールをたむろしつづけるだろう。このゾンビと向かい合うこと、銃を取るにせよ爆弾を投下するにせよ十字架を掲げるにせよ、そのつど死者との関係を洗いなおしていくことだけが生者としての「責任」にほかならない。むろん各自がわざわざ墓を暴きたてるような錯誤など無用、望もうと望まざろうとどこかのマッド・サイエンティスト=丘の上の狂人が必ず掘り起こしてくるだろうし、日々刻々と世界に沸いてくるあの新生児たちこそが流転する「死者」の芽吹きであるといってもかまわないだろう(ここでは生命論的、宗教論的枠組みは必要ない)。

 さて、それでも露悪主義者の諸君が安心して居直るためにはいったいどうすればよいのか。とりあえず事態に先んじてマッド・サイエンティストどもをひとり残らず葬っておく?あるいは強制的に「入院」させてしまってもいい、そうまでせずともみんなせーので無視してやれば済むんじゃないか、なにせあの連中は「こっちが心配するだけ無駄な、救いようのないキチガイ」なんだから……問題はいったいだれが群衆の中からマッド・サイエンティストを見分けるのか、ということなのだが。

 しかしながら「だれが見分けるのか」といった類のもっともらしい懐疑的なつぶやきで文章を締め括ることの「無理」はもう少し意識されてもよい……。

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 おわり。しかし本当にこれは、やはり個人的には時代を感じてしまう。果たしていつ書かれたものか正確には分からないのだけど……。掘り起こしてしまってもよかったのだろうか。