『監督失格』

 他人ごとではない……というわけではないのだけど、かつて平野勝之の撮影したアダルティック・ヴィデオグラムを観ては一日中そのことばかりを考えていた時期もないではなく、気の迷いではじめたHPにハイパーリンクを駆使した循環的かつ系統樹的な(つもりではあったものの実際には手動でペタペタと張っていたため構想よりはるかにショボイ永遠のUNDER CONSTRUCTIONということでどうかこの場はお手討ちを的な)『由美香』および平野監督諸作に関する批評スペースめいたものを含めてしまったくらいなので、突如甦ってしまった平野勝之という亡霊が林由美香という(平野氏の中の)亡霊を引きつれて目の前に現れた、という心持ちではあり、そういう意味では平野監督のオブセッションや見てしまったものを見なかったことにはできないという90年代的(と自分には思える)作家の呪縛とはまた別なものとして身につまされるところがあったし、中盤の衝撃的映像の登場により作品-観客の位相が揺さぶられ、あわや反転しかけるところでふっと引き離されやはり観客席側に取り残されてしまうことで生じた恐怖や心寂しさに大いに動揺させられ、映画館からの帰りに無用に身体を発火させるべく「すた丼」を普段の自分の摂取量からすると若干無謀な量を注文し、ひいひいと机に這いつくばるようにすべて食らい上げ寝床で腹を抱えうんうんと唸りを上げたものだった。

 ひとつだけ。例の映像に映っていなかったのは「死」であり「死体」であるが、平野勝之がついに撮影できなかったのは「死」ではなく「死体」である。というのも映画は決して死を映すことはできないからだ。映すことができるのは死体だけ。それどころか死は記述できないし、観測できるのかさえもきわめて怪しい。われわれが死だと思っているものは知識や情報に基づいて生の状態から然るべく計測された非=生であり、観測されているのはただその偏差だけなのではないか。そのちぐはぐさに囚われ逡巡していた平野勝之はなるほど『監督失格』なのであろう。監督がそこで悩んでいてはクルーも俳優も何も動けはしないのだから。