反復が運動であるということを忘れてはならないと思う。運動というのは動きの途中ということであり、その瞬間だけ切り出せば静的でもある任意の時空間参照系に存在する観測者によって現前していることどもがかつて現前していたことが眼差される。つまりさわちゃんは早朝ライヴをする放課後ティータイムにかつてのデスデビルの姿を重ね合わせるわけで、これ自体はたしかに追憶のようにも見えるのだけど、さわちゃんのかつての担任が登場することでさわちゃんもまた放課後ティータイムの存在によって「かつての担任」の反復的存在へとメタモルフォーズする(反復の運動のただなかに組み入れられる)ことになり、さらにかつての担任がデスデビルを追憶するさわちゃんをその外側からさらに追憶することでさわちゃんが「追憶する追憶されるひと」として時空間の中で宙吊りにされ、彼女の視線の向きが現在→過去という因果を辿るような線的なものではなく、現在→過去→現在という折り畳まれたものであるということが構図として示される……こととなる。この構図を円環という静的モデルに落とし込むのはかなり無理があるというか、そもそも根拠がないように思うのだけど。


(ところでけいおんシリーズの作中で具象イメージとしてもっとも強調される「回転」といえば再生されるカセットテープのそれということになるだろうが、『映画 けいおん!』冒頭でもカセットテープから流れるデスデビルの当て振りをする軽音部の面々を見ることができる。聴くのではなく、音に合わせて演奏するのでもなく、ただ弾く振りをするだけ(しかもその動作は音と合ってさえいない)で音は出さない。しかもそれはあずにゃんの前で上演される寸劇のための前振りにすぎないわけで、某ヘルシー宇野先生ふうにいえば「ごはん(音楽)はおかずどころか前菜で、しかもごはんを模したケーキだったよ!」みたいな、みたいなじゃぜんぜんないけど、これもまた反復に対するひとつの(放課後ティータイムなりの)見解ではあるだろう、と(音階に沿って残響に残響を重ねながら具体的に演奏することもまた反復なのではないか)。まあ、そういう)