かつて存在しその認識を共有される作品にも似た決して共有されぬ何か

たまこまーけっと』について、「"かわいい"以外の言葉は禁止」と言われました。「だってかわいくないから。ひとはかわいくなるためにかわいいものを観るんでしょう?」と言われ、さらに「映画けいおんもだからね!」と付け加えれらてしまったのでもはやぐうの音も出ずまたそれは至極もっともだと思えますので「もっともです」とこうべを垂れるほかありませんでした。一口で(アニメ版)「けいおん」と言っても『けいおん!』と『けいおん!!』と『映画けいおん』はまるきり別作品というわけではなくとも大きく雰囲気というか細部の組織の仕方が異なるわけで、昨年のことを忘れてその都度はじめて日付や行事や季節を生き直すかのような登場人物たちの言動であるとか、とつぜん所与として芽生えるムギちゃんの新設定であるとかに端的に表れているように作品は絶えずテクストとして読み直されつつフレキシブルにその様相を変えつづけてきたと言えるでしょう。たとえば『氷菓』は当初違和感ばかりが先に立ってあまり乗り切れず半ば消化する体で遠巻きに眺めているばかりだったのですが、『愚者のエンドロール』相当のエピソードでようやく楽しみ方がわかってきたというか「よく読んでるなー」と感心させられてしまい、とはいえそれは「原作を読み込みテクストの組成や著者の意図を深く斟酌している」という意味ではなく、テクストは読まれることで読まれたテクストとなり複数の読まれたテクストを擦り合わせることが読むことである、ということを主題に織り込む形でテクストからのフレキシビリティとして高らかに宣言している、といった程度の意味で、印象としてはむしろ頑なさを残すものである、ということはエピソード進行に伴う空間構成の変化がギッチギチに明密であるけいおん一期目や物語時間を先取り的に内包する確としたパースペクティヴが設計された二期目にも感じることだったりします。その上での『映画けいおん』であって、まるで(いつとも知れぬ地点で平沢唯が目覚める場面からはじまるからこそよりいっそう)作品の見る夢がごとく反復であり、予定調和であり、それがゆえに自由で、美しく、徴候に満ち、かわいいもので溢れ、ただただ醗酵した行間からたちまち滲み出す言語行為のメランコリーから距離を取ることだけにすべてが賭けられていた……と言っても差し支えないかも知れません。そして『たまこまーけっと』はその夢のつづきであり、だからこそOPでたまこがシルクハットを携えて空から降りてくるわけです。彼女は種も仕掛けもあるはずの手品を披露していかにもうさんくさい鳥をこの世界に現出させます。わたしたちはいかがわしいものをそのいかがわしさゆえに、にわかには信じがたいものを信じがたいがゆえに信じるのだ……とまで言ってしまっては先走りすぎ、仮託しすぎというものですが。何にせよ「けいおん」を期待して「たまこま」に失望する、というごく一部で語られるまことしやかな言説は『映画けいおん』をさくっと無視することでしか成立し得ないし、どうせ「京都アニメーションはオリジナルを作れないくせに与えられた原作には愛なき改変を加える」という物語を流布して溜飲を下げたいだけの連中でしょうよーとっとっといけないいけない、"かわいい"以外は駄目なんでした。これではまたぞろ大目玉を食らってしまうではないですか!


  というわけで今年こそはブログの書き方を思い出しつつ、かつて知っていたことがあるのかきわめて怪しいものの、ともかく誤魔化しでもでっち上げでもいいので連続的な更新を目指して。次は2012年のベストミュージックでも書き残しておくことにしましょう。せっかく意識的に新作を聴いてきた一年でもあったしね……。(今年はすでに60年代サイケレア盤の再発に興奮したりしていて早くも駄目な予感。D'Angeloの新作が完成間近とか見逃せない情報もあるけど。あとついにやってきました大声優時代!)