「山田尚子監督には愛がない」とかいう寝言を見かけた気がするが

twitterで書こうと思っていたが面倒になった。もういいだろうという気持ちだ。ところで昨年おぼえてから馬鹿の一つおぼえのように「物事の裏には意図がある」と言っているのだが、とうぜん重要なのはその意図はどのようなものか、ということではなく、たしかに意図があるのだ、というテーゼを共有することにある。おそらく人は身に降ってわいた出来事や自然現象等々がどのような意図をもってもたらされたのかをわざわざ疑問に思ったりはしないが(思うのだとしたら統合失調症かあるいはそういう宗教か……)、言語で構成された人工物の、その諸表現の裏側にある意図の存在くらいは信じたっていいはずだし、そうすることで読者はテクストを真に受けるしかなくなる。物事の裏にあるのは真意ではなく、あくまでそこにあるのは意図であり、意図というのは何かをしようという目論見や企みであっていまだそこには何も露呈されていない、ただ痕跡があるだけで、物事(テキスト)の裏を経由して意図という"意図する者"の痕跡へと辿り着く、その営み全体をテクストというのだとはひとまず思っている。

で、ちょっと前に書いたことの繰り返し。『映画けいおん!』を観返そうとしたら5秒で胸一杯になってしまったから。まあ、確認のための無味乾燥なまとめ。冒頭であずにゃんのために組織されたあずにゃん除く現役バンドメンバーが、カセットテープで再生された先輩バンドによる演奏に合わせた、より正確を期するならテープに記録されているところの演奏された時間の持続と同期して持続しているだけにすぎない、音も出さなければその音の再現性を司るふりさえしない、いわばちっとも当て振らない当て振りあずにゃんの登場によってうやむやに中断される、この全体が後続するわざとらしい小芝居を導くために意図して演出されている。ここで明示されているのは、反復は繰り返しではない、ということ。デスデビルと放課後ティータイムは音楽性がまったく異なるし、かたや音楽、すなわちその時間の持続そのものが目的であるにもかかわらず、かたやその持続の出来損ないの反復はそれ自体が目的ではなく、あくまで目的への橋渡しを意図したパフォーマンスでしかない。いわば本題と枕。そして目的はあくまで外側=あずにゃんにあり、閉じた部室(しかし開かれることを期待されている)において演じられるずれた反復はあずにゃん自身の登場によって破られる。


優れた映画は冒頭部でその作品における映像/運動の規則を明瞭に提示するものであり、『映画けいおん!』もまたその例に漏れない。この作品の画面を彩る大小様々な回転は円環として繰り返すのではなく、反復としてずれつづけるのであり、またそれはその運動の起源をもってして開かれるのだ、と。ただ四人に一人加わっただけでは本当に開かれているとは言えない。あくまで予行、あくまで仕込みであって、それを受けての後半、さわちゃんのために企画された放課後ティータイムフルメンバーによる教室ライヴを見守るさわちゃんを見守る元担任、すなわち"反復する放課後ティータイムを見る、見られる反復される山中さわ子"という構図であり、そしてそのこととはまったく関係なく、別の場所で「わたしたち伝統受け継いでるじゃん」と自分たちで気づき、あずにゃん(たち)の方へ走り出すラストシーンへと繋がる。ところで。平沢唯が先頭を歩きながら進行方向に背中を向けているのはみんなと話しているからであり、みんなとはあずにゃんを除く同級生の三人であり、すなわちそれは学校を去りゆく面子である。そして横断歩道を渡りきったところで振り返って走り出しその先にあずにゃんがいる――この一連の所作に、未来は背中からやってくる、という日渡早紀『未来のうてな』で示された非常に印象的な時間観との相似を見出したりしていたのだった(そもそもの由来はギリシア哲学あたりだろうか? ゼノンあたりを要精査)。


でまあ、上記のような描写が継承でなくて何なのよ。たしかに唯の視線の先にいるのはあずにゃんだけである。唯のダッシュあずにゃんのもとに駆け寄るために、唯の両手はあずにゃんへと伸ばしその身を掻き抱くために存在しているかのようだ。しかし放課後ティータイムがデスデビルの(出来損ないの)反復であるのと同様に放課後ティータイムもまた誰かに反復される存在であり、たとえバトンを直接手渡されるのがあずさであったとしても、起源がつねに外側にあるように、あずさもまた誰かにバトンを渡すのだろう、という仄かな予感が萌されるというにすぎない。いずれ軽音部に入部してくる(かも知れない)憂や純や菫にもまた託されているのだということは火を見るより明らかではないのか。そんなことをひとまず。