ウルトラ・スーパー・デラックスマン

ああ、書き込もうと自分のブログを訪れるたびサイトのレイアウト何かちがう病が発症してしまう……とはいえここでうっかり手を出してしまうとまた時間が湯水のごとく消費されてしまうのでぐっと我慢の子でとりあえずちょっとだけメモを。


 藤子・F・不二雄ウルトラ・スーパー・デラックスマン』について。そのラスト、包丁でも拳銃でも戦車砲でも小型核爆弾でも死に至らしめることのできなかった(本人曰くウルトラ・スーパー・デラックス細胞で出来た)句楽兼人の死因は胃ガンであり、現代最高の医療でも《ウルトラ・スーパー・デラックスガン細胞》の増殖を止めることは不可能であった、と追想的な誰かのモノローグによって語られる。なるほど、やっぱりガンは怖いや! ……しかしウルトラ・スーパー・デラックスガン細胞とはいったいぜんたい何じゃらほい? なのだが、おそらくそれは単にウルトラ・スーパー・デラックスマンの命を奪ったガン細胞、というほどの意味しかなく、その実ただのガン細胞であり、とはいえ正義に執心するがあまり怪物化した不死身の男にとどめを刺したのだから正義のガン細胞なのである。暴走する正義の味方にウルトラ・スーパー・デラックスマンという多重形容の過剰でナンセンスな名前が付与されたのが皮肉ならば、尊い命を奪い年々人口全体におけるその死亡率が(あくまでこの作品の発表された1976年当時の話だが)増加の一途を辿っている現代医学最大の敵だったはずのガン細胞に正義の味方と同じ形容が冠されるのは二重の皮肉であり、さすればこの作品のテーマは、たとえば全集の巻末解説で山田正紀が示唆するような「正義」(の欺瞞性、いかがわしさ)ではあるまい。むしろそれは「(正義の)イメージ」だろう。現代においてイメージはメディアによって増幅される。


 思えば句楽兼人は《世の中にあふれるどす黒い不正》をテレビや新聞で《見るにつけ聞くにつけ》怒りを募らせてはいるものの、現実では痴漢ひとり撃退することも出来ずにせっせと新聞に投書をつづけるだけの毎日を送っていた。それだけの男になぜとつぜん数々の超能力が付与されたのかは特に説明されないが、ともかく彼はウルトラ・スーパー・デラックスマンになった後も新聞やテレビを気にしつづけ、最近は事件とか起きなくていいよね、きっと悪人どもが君に恐れをなしているんだよ、と言う友人に対して、正義の味方に出番を与えないよう報道管制が敷かれているからそう見えるだけだ、と自説を披瀝してまた憤る始末なのだ。


 メディアとの閉じた受給関係の中で超能力を与えられ正義を実行してきた男が、自家中毒的な正義のイメージに振りまわされる内に怪物化し、やがてメディアから一方的に正義の循環回路を絶ちきられ、終いには会社のOLを萎縮させたり、寿司をただでせしめたり、売れっ子アイドルとの一夜を楽しむだけの存在へとなし崩し的に矮小化していく。そしてその命脈を絶つのがメディアによって致死性の高い難病として市民権を得つつあった、いわばドラゴンボール元気玉みたいにみんなの力を結集した「ガン細胞」(というイメージ)であった、というのがこの作品の要旨と考えて間違いないだろう。間違いないんですってば。