川井マコト『幸腹グラフィティ』

けっきょく誘惑に負けてデザインを変更してしまったのですが、いくら見栄えを変えたところで文章がよくなるわけではないので、いずれにせよ居心地の悪さは残るのでした。時間が解決するのを待とう……。


 リハビリつづけます。川井マコト幸腹グラフィティ』について。これtwitterで書いたと思ったのだけどさっき見たら140文字ギリギリに纏められながらも何かが気にくわなかったのかまだ下書きに残されていたのでこっちで書き継いでみる。この作品の、少なくとも一巻目の範囲内で何が志向されているかということは一話目にある「わたしの料理」なる4コマにはっきりと書いてある。1コマ目で目を伏せて無表情にご飯を食べる主体が町子リョウという名の中学二年生であることがモノローグで明かされ、2コマ目で微笑む老女の遺影が映り、3コマ目でそれが少し前まで二人きりで住んでいた祖母であることが示唆され、4コマ目で《料理が下手になってしまいました》というモノローグと《ご飯が/まずいです……!》というセリフが、すなわちこれら階層の異なるテクストが涙の漫符や擬態語やトーンによるリョウの"泣き"の表象によって結びつけられ、それらが相互干渉的で切り離し不可能な事象であり、彼女にとっていかに悲嘆すべきことであるかが雄弁に、かつきわめて簡潔に語られる。リョウは食べるひととして現在形で嘆きながら、同時に作るひととしてその状況を俯瞰している。"作る-食べる"間にはとうぜん時差があり、食べるためにはまず作られる必要があるのだが、作ったものが必ず食べられるとは限らない。だから食べるひとにとっては料理を食べることそのものが存在理由であり、そのまま確かさや強度であったりするのだが、料理を作るひとは料理を食べられて初めて料理を作るひととしての役割をまっとうしたと言えるのであり、しかし作るは食べるに先行している以上、作るひとにとっては"食べるひと"のイメージを先取りすることが必要不可欠となる。それゆえ作るひとであり食べるひとであるリョウは、たとえば自分が誰かと食卓を囲んでいる光景をイメージしながら料理を作る。そこに時差はあってもイメージの"視差"はない。自分が食べることによって実現される幸福のイメージを自分が料理を作るとき先取りすることが結果として(作るひと-食べるひと間の)"視差"を埋めているのであって、それが独り身になることによってかなわなくなってしまったことで生じる、いわば"イメージの落差"とでも言うべき事象が4コマ目の《見た目はいいのに!!》という書き文字によって端的に表現されているという、まったくもって無駄のない一本なのであります。


 ところで一巻を締めくくる挿話では、食べるひと(一話で同居人になる森野きりん)が作るひとにまわり、食べるひと町子リョウが作るひと森野きりんのことを想像しながらお弁当をいただく、というくだりがあり、最後にだめ押し的に森野きりんが《でもお弁当って中身が分からないのもいいところだよね/箱開けるまでがワクワクっていうか》と言う。"視差"を食べるひと側から埋める、俯瞰や先取りなどの操作を経ない形での"イメージの交歓"を仄かに予感させるものであり、とても美しいと思いました。