あ、正確には同居ではなかった。あといちばん肝心の「『幸腹グラフィティ』のメインキャラクターたちはなぜ揃いも揃って食べているときに過剰な蕩け顔になるのか?」ということについて考えるのを忘れていた。特に読み返さずに感想を書くからこうなる。片手落ちだなあ。というわけで考えてみます。


 まず作るひと町子リョウの思い描く幸福のイメージの源泉が食卓にあるのは間違いないのだけど、それは食べることそのものにはない。家族はよきものであり、家族は食卓を囲むものである、と同時に、食卓を囲むものが家族であり、家族であることはよきことである。この理念と規範の往還=接続を媒介するのが"料理のおいしさ"であり、それを食べるという具体的な行為だろう。でも仮に蕩け顔が幸福の表象だとしたらちょっと禍々しすぎるし、食卓で雁首揃えて「おいしいれふ……」と恍惚としている風景は不気味なものでしかない。だがリョウのイメージする食事光景できりんは朗らかに笑ってはいても恍惚とはしていないし、実際に食卓でも彼女らは食べるのに夢中でお互いの顔など見てはいない。蕩け顔が気になってしまうのは一話目のきりんとか、《よかった こういう食べ方するのうちの子だけじゃなかった》とコマの隅でつぶやく椎名の母親といった"(リョウの)家族"の外側にいる/いた者たちだけなのだ。そもそも蕩け顔とはいったい何なのかというとそれは食べることで内的に生じる"料理のおいしさ"に対する各々のアプローチの表象であり、それ自体は個人的で閉じた味覚というひとつの言語体系に基づくものであろう。誰が何をどうおいしいと感じるかは個々の履歴に負うところが大であるわけで(育ってきた環境が〜という歌もあるように)、それでも対話可能な部分を求めて作るひとはときに食べるひとの好き嫌いなども勘案しつつ手を尽くす。この心尽くしと賞味の応答はしかしあくまで噛み合ってはいなくて、作るひとは一方的に食べるひとをイメージするし、食べるひとはただひたすら食べるを全うする。彼女たち三人はそれぞれ過剰な恍惚の身振りによって作り手のイメージから自らを切り離し、(作るひともまたその一員である)食べるひと同士の内的過程の通約不可能性を露わにすることで、逆説的に彼女たちが"料理のおいしさ"に関する内的過程を共有していることが明らかになる。この噛み合わなさによって噛み合う様子、そこに言語ゲームが成立しているということがリョウにとっての幸福な家族の光景に直結している。家族の光景というのは、ただそう思えばそれだけで成立するものではないし、そう見えることだけが大事だというわけでもないのだ。


 とりあえずこんな感じのことを考えました。