メッセンジャーであるということ〜宝塚雪組『Shall we ダンス?』

東京公演が始まる前にいちおう。宝塚雪組公演『Shall we ダンス?』について。小柳奈穂子/脚本・演出作は初見。第一印象が「こりゃ少女漫画だなあ」というもので、いわば設定だけは外国ながら人物たちに流れているのは日本人の血、舞台設定は外国だけど考証は表面的で文化風習に現代日本の感性が見え隠れしている、ただただカタカナの名前を持った金髪碧眼八頭身の男たちがたむろして現実離れした会話をしているのが不自然でない絵面を優先させました、みたいな。大らかといえば大らか、いい加減といえばいい加減な古式ゆかしき少女漫画のたたずまい。『Shall we ダンス?』は筋立て自体はおそらく――観ていないのでどこまでそうかはわからないけど――映画そのままで、でも日本の平凡なサラリーマンがふと見上げた駅前のダンス教室のネオンに目を取られ……などという話をタカラジェンヌが演じたところで不自然どころか破綻さえしかねないので(なにせ役所広司はお世辞にも美しいとは言い難いおじさんであるわけで、とはいえ主演の壮一帆だって年齢自体は当時の役所氏とさして変わらないはずではあるのだが)、舞台は西洋のオフィス街に移され、壮一帆は眉目秀麗ながらもスーツや休日のお父さんセーターを身体に馴染ませ、いかにも平凡な体で舞台に立っている。


 ところでオフィスの同僚でダンス教室の先輩である夢乃聖夏演ずるラテン男は映画未見の自分でも即座に「あ、これ竹中直人だ」とわかるほどの暑苦しいオーヴァーアクションで登場するのだが、宝塚の男役である夢乃聖夏がいかにも躁的な竹中直人のラテン乗りをなぞるのではなくそこに様式的な男役ポーズを乗せることで暑苦しいラテンのリズムで壮一帆にダンスの魅力を語る言葉が同時に男役ポーズすなわちその様式性の根源である宝塚歌劇そのものの魅力をも語る言葉にもなっている。劇中では壮一帆演じる平凡なサラリーマン個人へと向けられたその言葉は壮一帆の帯びる平凡さ、無名性の記号を媒介することで舞台の外側へと拡散していくのだ。踊る側とそれを見上げる側。有名性と無名性。そのあいだを橋渡しするもの。終盤、壮一帆はかつて初めてダンス教室を見上げ、早霧せいながひとり踊る姿を目撃したのと同じ窓の下に立ち、同じように教室を見上げる。するとダンス教室のネオンが明滅し、"Shall we ダンス?"というメッセージへと変わる。それは世界からのメッセージだろう。そして壮一帆はそのメッセージをかつて踊ることをやめ、再び踊る契機を探していた早霧せいなに差し出す。そして彼女はそれを受け取り、すなわち壮一帆の言葉を受けて彼の手を取り、再び踊り出す。メッセージを待つこと、メッセージを受け取ること、メッセージを待つ者にメッセージを差し出すこと。壮一帆の妻を演じる愛加あゆは言う。「ダンスを始めたって人生は何も変わらないかも知れない。でも明日変わってしまうかもわからない」


 タカラジェンヌとは世界からのメッセージを受け取る者である。そしてメッセージを待つ観客へと届ける者である。"Shall we ダンス?"はわたしたち観客を観客たらしめる魔法の言葉でもあるのだ……そのようにこの作品を受け取った。