『アイドルマスター シンデレラガールズ』13話

アイドルマスターシンデレラガールズ』OPでいちばん印象的なのは徹底して俯瞰を見せないことで、カメラが仮想空間的な動きを見せようがどれだけカットが切り替わろうが適切な位置で上昇してそのフォーメーションの全貌を見せてくれることはない。アイドルたちが見得を切ろうが、懸命に歌い踊る彼女たちの横顔をいかに捕らえようが、カメラはそれを見せるだけ、切って、繋いで、肝心なところで暗転に任せる。本編の作劇もまたそのように進行してきた。プロデューサーは頑なにアイドルたちに言葉を与えず、シンデレラプロジェクトの目的さえ提示しない。メンバーの欠場や交代、またステージの再開さえ明示的にアナウンスしないフェスとは何なのか。あの行き当たりばったりにも見える構成は。カメラはあくまで観客の視線を代理はしない。前回未央があんなにもこだわったフォーメーションはOP同様仮想的に繋ぎ合わされるだけだ。ただ観客の一体となった掛け声、サイリウムを駆使した舞踏、そのあらゆる熱狂のうねりがアイドルたちの舞台を照らし、それに向かって彼女たちは表情、ダンス、歌唱によって応じる。「ひとりひとりに楽しんでもらう」と宣言したのも未央だった。それはすなわち「誰のことも視ない」ということ。誰のことも視ないから、誰のことでも視ることができる。宝塚の銀橋のように、その上をトップスターがどこともない宙空を見つめながら歌い、踊るように、観客席とステージは同一平面上にはなく、観客はその隔たりをどこともなく見上げ、パフォーマーはどこともない宙空を見据える。しかしニュージェネレーションズはあの数少ない観客たちのことを(今度は)ちゃんと覚えている。偶然居合わせた人々のことも、天候悪化という偶然的条件のもとそれでもステージの見えるところに陣取っていた人々のことも。それらは等しく観客の視線、熱狂として彼女たちのステージ上でのあらゆるムーヴに刻まれているのだ。あとは彼女たちがそれをめいめいまっとうすればいい。『アイドルマスター シンデレラガールズ』はとりあえずそれが彼女たちの"初陣"である、という回答を提示したのだと思う。