『放課後のプレアデス』と『恐竜』

放課後のプレアデス』四話を観て思い出していたのは世界一短い小説として有名なアウグスト・モンテロッソ『恐竜』のことだった。ひかるの目が覚めたとき、彼女はまだ宇宙にいて、まだステッキにまたがっていて、まだ夢の中のひとが隣にいて、まだ夢の中の音楽が聞こえていて、でもステッキは動いているから彼女はすでに月の衛星軌道上まで来ている。眠っているあいだに変わったこと、変わらなかったこと。

"Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí."

《目を覚ましたとき、恐竜はまだそこにいた》


 この一文を読んでパッと頭に浮かぶ光景は大別すると二つになるだろう。眠る前に恐竜がそこにいて、眠っているあいだにいなくなると予期されていたにもかかわらず、目を覚ましても恐竜はまだそこにいた。あるいは夢の中で出会った恐竜が、目を覚ますとまだそのままそこにいた*1。どちらにしてもこの小説のすべてを構成するたった七語では決め手になりようがない。つまりどちらの光景も同時に成立する、ということになる。恐竜がいることが前提の世界であり、その世界の様態の堅固さが目覚めという"中断と再開"によって縁取られるのが前者だとするなら、恐竜が存在しないはずの世界に現実とは異なるあり方で作用する夢の世界の法則が持ち込まれるのが後者。恐竜がいるはずの世界の持続と恐竜がいないはずの世界の崩壊が一文の内に同時に存在する。では"Cuando despertó"という三人称単数表現で省かれている行為の主体はいったい誰なのか、そう考えるとき、もう一つの光景が立ち上がってきはしまいか。すなわち、"そこ"で目を覚ましたのは恐竜だった。そうなるとこの一文すべてが遠い夢の世界の出来事のようにも思えてくる。光景にはのんびりとユーモラスな雰囲気もありつつ、対象のない指示語の存在によってカフカ『変身』冒頭の《気がかりな夢 "unruhigen Träumen"》を参照するかのような内実のはっきりしない不安感がうっすらと漂っているような気配もある。夢も小説もともに人間の言語活動であり、ゆえに小説=夢の圏域にあっては恐竜もまた夢を見る。この小説を構成する七語に"夢"を直接的に指示する単語はないのに、それでも夢のにおいを感じ取ってしまうのはその視点の曖昧さ、多重性ゆえではないか。夢に立ち入らない"わたし"の視点、夢と夢の外を越境する"わたし"の視点、夢の光景そのものである"わたし"の視点。みんな"わたし"。


 ひかるが夢の中で父親のピアノの音を聞いたときにぽつんと漏らした「夢はなにかと用意がいいね」というつぶやき。これは現実とは異なるあり方で作用する夢の法則についての言及であり、その夢の法則を夢と意識しながら所与として受け入れている彼女自身を、そのことによって触媒として夢の外へと差し向けるための予備動作でもあったのだろう。実際に音は夢の外でも鳴っているのだからその音は夢によって用意されたものではない。だけどすばるの存在はひかるのイメージに沿って再構成されていたのだから、夢の外で鳴っている音が夢の中でも同じように鳴っているのもまた夢の法則が作用した結果なのだと言える。そしてなんとすばるも同じ夢を見ていた! その夢が"同じ"だったかどうかはすばるの視点がないからわからないし、たとえ同じだったとしても"同じ"ではなかっただろう。でも夢を見ていたのは同じ、二人一緒に"そこ"にいて、同じものを食べた。そのことを知ることができたのは二人とも目を覚ますことができたからだ。目が覚める、ということは夢の世界の中断であり、夢の外の世界の再開であるが(目覚めるということは今日という昨日と同じ一日が始まるということであり、しかし今日が昨日と同じ一日であることはありえない)、夢の外の世界が続いているからこそ"わたし"は目を覚ますことができる、でも目を覚ました先が夢の外であるという保証なんてどこにもないのだから、夢の外の世界が夢の外の世界であるため夢には夢らしくあってもらわなくてはならないのだが、ではその"らしさ"のイメージの出自はいったいどこなのだろうかというと、それはこれまで蓄積されきた数々の物語であり、つまりやっぱり"夢"なのだ。

*1:ところで後者の読み方は恐竜が存在しうる世界においても存在しえない世界においても同様に成立しうるものだと思うが、実際にこの小説が読まれているこの世界では恐竜はすでに絶滅しているのだから、ジャンルや世界観などの事前設定が与えられていない状況で一つの現代小説として読者の常識の延長線上で読むということであれば、恐竜が存在しえない世界の出来事として読むほうがより自然というか直線的だといえるのではなかろうか。わざわざ恐竜を比喩としてとらえるのもまた「負担」ではあるだろうし。