登場人物が作者に直接異議申立てをするということ

放課後のプレアデス』の話をしているときふっと風が吹きつけた拍子に「でも別にキャラクターは視聴者を楽しませるために生きているわけではないからね」と口にしてしまったのはどこかでうっかり目にしてしまった『放課後のプレアデス』評に対する苛立ちが薄く堆積していたからなのかも知れず、しかしそれにしても奇妙な言いまわしだなあ、と我がことながら思ってしまいもするのだけど、やっぱりそうとしか表現できない感触というものがあの作品には通奏してあったし、それはほとんど異議申立てといえるほどの激しさを帯びていたとも思う。『放課後のプレアデス』というアニメは、それが果たして"えすえふ"か"ふぁんたじー"か、などという受け手本位のお粗末きわまりない手遊びに安穏と興じて事足れりとしていられるような作品では断じてないだろう。そしてそのこととはあまり関係なく、いや関係ないはずもないのだがあくまで呼び水は呼び水のまま措いておいて、先日読んだばかりの西寺郷太『噂のメロディ・メイカー』のことを今は思う。この作品はノンフィクションを下敷きにした小説と銘打たれており、しかもそのノンフィクションに相当する出来事(「ワム!ゴーストライターをしていたという人物がいて、しかもそれは日本人!?」)の進行中にメールマガジンで小説として定期的に連載発表されていたという事情もあることからそれをあらかじめ読んでいた取材相手が挨拶代わりに「あれ読みましたよー」的に話題にする局面があったりもしてさながら『ドン・キホーテ』といった風情で、とはいえ『ドン・キホーテ』と違って西寺郷太はその読まれたところのテクストを物した張本人でもあり、少なくとも相手にその認識があるからこそ西寺郷太に向かって「読みましたよー」ということを知らしめるのだけど、小説の中で「読みましたよー」と言われている西寺郷太は"書かれた"存在であり、同じく書かれた存在であるその取材相手が話題にしているところの「小説」はあくまで書かれた存在である西寺郷太が劇中で書き水道橋博士メールマガジンに発表している連載小説を指すのであって、現在書かれつつある……かつて書かれつつありすでに書かれつつない、今また書かれつつある体で読まれつつある諸記述の生成過程の只中にある西寺郷太という視点人物とはやはり属する階位が異なっているとは言えるだろう。


 ほどほどの一般論として、作者がテクスト内部に作者として登場することは「どれだけ」可能なのか? という問いはありうるだろう。テクスト内部に現れた作者は作者という概念が受肉した分身でしかありえない。枠線を侵犯しようが自らを作者と名乗ろうが"書かれた"存在であることに変わりはないわけで、せいぜいがちょっと不真面目な登場人物というくらい。そもそも自分と同等の存在階位しか有しえない一登場人物がこの世界の創造主を名乗ったところで狂人扱いされるのが関の山だろうし、それを真に受けてしまったら下手するとその人までもが狂人扱いされかねないではないか(山本直樹『まかせなさいっ!』では酔っぱらいのおじさんが唐突に「神」を名乗って登場し、順当にただの酔っぱらいのおじさんとして処理される。"彼"はその場にいる登場人物全員を指差しては死の不可避性を指摘してまわり、もちろん誰も真には受けないのだが、作品はそこで終わるのだった)。


 取材相手があらかじめ西寺郷太の小説を読んでくれているということ。それは事情(これまでの道のりや周辺事情、取材者のスタンス)を一から説明する手間が省けるというのみならず、その事情を承知しているということを作者に向かって開陳することそれ自体が、取材を受けることによってゆくゆくは小説の登場人物になってもよいという合意のサインとしても機能している。パラドクシカルな物言いをすると、登場人物にわざわざ登場することの同意を事前に取り付けている小説というのはあるまいが、取材を元にしたノンフィクションならばその辺の根回しは欠かさないはずだ。もちろん小説はフィクションだから同意を取り付ける相手はいないし、書かれなければただ書かれていないことにすぎないので同意を取り付けたも取り付けてないもなくなってしまうし、書かれてしまえばやはり書かれてしまった以上同意を取り付けるも取り付けないもなくなってしまう。そもそも相手以前に「誰」が取り付けるのか。作者、だとそれは単にモデル小説の話になってしまう。が、作者がその役目を負わなくて誰が負うのだ、という気もする。だからこそ数行前"ゆくゆく"という副詞を用いたのだった。今はそうではないがいずれそうなるだろうという確実性の高い予感。「読みましたよー」という言葉はたしかに一登場人物である西寺郷太に向けられている。そこで話題になっているのはすでに書かれた小説についてが半分、そしていずれ書かれるであろう(そして取材相手もきっと登場しているであろう)小説についてがもう半分。そのもう半分の小説の作者は西寺郷太ではあるが"この"西寺郷太ではない。


 小説の終盤、ほとんど読みはじめたときから読者にとって明白なこの作品の帰結として、さんざっぱら回避され延期されてきたラスボス、ワム!ゴーストライターであるとされる日本人、騎士物語における聖杯たる"ナルショー"との邂逅がカセットテープというメディアを媒介して果たされることになる。そしてその中でナルショーはこのような言い方をする。
《まぁ、あなたの小説を面白くするために、僕は生きてきたわけじゃないんで》


 当然ナルショーもまたあらかじめ西寺郷太の連載小説を読んでいる。だがナルショーが自分の人生を捧げることを拒んだところの"小説"はまだ書かれてはいない。ナルショーはそのいまだ書かれざる小説に登場することに同意をしたうえで、西寺郷太というすでに書かれた小説の作者でありかつこれから書かれるであろう小説の作者に向かって、作者というものの作者であるがゆえに登場人物に対して不可避的に生じる傲慢さを指弾したのだ。これこそ登場人物が作者に直接異議申立てをした瞬間であるとは言えまいか。ナルショーは最後の最後で西寺郷太と対面することを避け、カセットテープに自らのメッセージを吹き込み、それを第三者に託した。ナルショーの西寺郷太(という受け手であることを期待された仮想上の受け手)へのメッセージは宙空へと向けられたあと磁気テープに刻まれ、一度そこで回路は閉じる。そしてそれは第三者の手によって然るべき受け手のもとに運ばれ、さも目の前でメッセージを発しているかのように再生されることで回路は再接続されるのだ。そのような手続きを経て思い出されるのは、作者はまた読者の映し身でもあったという歴史的な事実なのだった。