『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』についての補記

アクセス記録を見ていると以前からウルトラ・スーパー・デラックスマンという単語の検索によってこのブログに辿り着く例が定期的に観測されるので、ちょっと以前書いたことの補足でもやっておこうという気持ちに今にしてようやくなった。


 全集の解説で山田正紀が書くようにこの作品の主眼が《「正義」が本来的に持つそのいかがさわしさ、欺瞞性》であるとするなら、あのデウス・エクス・マキーナ的というか、いささか唐突すぎる句楽兼人の死はどのように受け止めるべきなのだろうか。句楽兼人は一人の人間として死に、葬られた。それは彼の「正義」に対する志向がルサンチマンに端を発する暗い欲望であったことからも必然であったろう。正義のヒーローの素質なき人間がヒーローになってしまうということはもはや悲劇には留まらぬ、ちょっとしたカタストロフであり、その排除は全人類規模の課題となる。だからこそそれを果たしえた唯一の存在である癌細胞は《ウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞》と称されたのだ。特別な名前が冠されているからといってそれがなにか特別強力な癌細胞であったということはない。句楽兼人が一人の人間として死んだのなら、それはどこにでもある、何の変哲もない……というのも変な言い方だが、誰にでも発症し、誰をも確実に死に至らしめる病気でなくてはならなかった。もちろん癌はそういう病気ではない。だがこの作品が発表された1976年段階ではそういうイメージでもって社会では遇されていた、ということはその二年後に発表されたスーザン・ソンタグ『隠喩としての病』にも書かかれている。だとするとこの作品はただ物語に幕を引くためにそのような癌神話に安易に乗っかっだけなのだろうか?


 そうではない。人助けと称して暴力に溺れるウルトラ・スーパー・デラックスマンは社会悪であり、社会悪を駆逐するのは正義のヒーローの役割である。そして実際に社会悪であるところのウルトラ・スーパー・デラックスマンの命を奪ったのは悪の隠喩の担い手であるはずの癌細胞なのだ。いや、実際のところ癌細胞が殺したのは一人間である句楽兼人にすぎない。だが句楽兼人が死ぬということは同時にウルトラ・スーパー・デラックスマンが死ぬということも意味する。たとえばスーパーマンなら現場に飛んでいけば野次馬たちが、あれは誰だ、鳥か、いやスーパーマンだと指差しながら持て囃してくれるだろう。スーパーマンという名前は自然発生的に大衆の口端にのぼり、口から口へと伝えられてそのたびに正義の味方、代行者というイメージは強化されていく。だがウルトラ・スーパー・デラックスマンはちがう。彼の行使する正義はあくまで一方的なもので、それはどこまでいっても感謝ではなく恐怖によって遇されるほかない。彼の暴力はどこまで行っても具体的で、イメージの入り込む余地などなかった(ウルトラ・スーパー・デラックスという過剰形容の空疎なことよ!)。だからこそ、悪のイメージを一手に負う癌細胞は句楽兼人を死に至らしめることによってウルトラ・スーパー・デラックスマンを世界から駆逐し、そのことによってウルトラ・スーパー・デラックス癌細胞という称号を引き継いだのだ、不吉どころではない、いまだ陰惨で忌々しい記憶を喚起する血なまぐさい称号を。


 これほど苛烈なイメージ批判があるだろうか?