もう一文だけ続き

もちろん千葉サドルの筆致が連載を重ねる中でストーリーの展開に伴う生成変化をしていて、それ自体は『がっこうぐらし!』に限らず連載漫画作品にあってはよくあることではあるのだけど、あのときゆきが「美人になった?」と言ったときに含意していたのは「大人っぽくなった?」であるというのは明らかで、「大人っぽくなる」とはすなわち「子供っぽくなくなる」ということであり、また美人なるものはしばしば神秘的だの憂いを帯びているだのと第三者から評されるもので、すなわちそれは外面からは内面を推し量ることができないということなのだけど、そこがあらかじめ「人間には内面がある」という了解がある世界でなければ内面を推し量るも推し量らないもなく、それは少なくとも外面と内面が一対一対応しているかのような"記号化"とは無縁であるというのみならず、表象構成のルールが変わったということ、作品主題になぞらえて言うなら、高校を卒業するということは学校において演じられてきた役割に一段落をつけるということであり、とはいえ自主的に卒業式をしなくてはならない学園生活部の面々においては卒業というのは単にその時期が来たら天から降ってきて自動的にそうなるような類の行事ではなく、いやそういう行事であったからこそ彼女たちの擬似的な学校生活において欠かせないものだったのであって、それは朝や帰りの挨拶であったり外出時に先生に提出する書類であったり遠足や体育祭であったりも同様なのだけど、そうであるがゆえにいっそう卒業の持つ意味は二重化せざるをえないわけで、ことゆきにとっては、崩壊した教室でその崩壊をなかったことにしつつすでにそこにいない先生と「学校ごっこ」というそれ自体がごっこ遊びである"教室"の風景を演じるという二重性を生きていたゆきにとっては卒業とは後戻り不可能地点を踏み越えることでなくてはならなかったはずで、ゆきの「美人になった(→大人っぽくなった→子供っぽくなくなった)?」という自己評価の言葉はそのことに対する自覚をうかがわせるものであり、「ゆきが美人になる」という事態は作者の絵柄変化のみに還元できることではない……ということを前回書きたかった気がした(がすでに後の祭りだった)のでした。