かつて偽日記というサイト名を見たとき、このひとうまいこと言ったなあと思った。荒木経惟の『女高生偽日記』というタイトルはまだ大阪で面白い映画がやまほど上映されていたころ何かの特集上映の一作として見かけて、そのタイトルに心惹かれながらも観る気はまったく起きずにスルーしたまま現在まで巡り会う機会もなくおそらく今後もあるまいと思うし、いまとなっては偽日記という言葉は手垢にまみれてしまったというか、特定の一サイト(ブログ)とあまりに直結してしまっているため一般名詞的に使用するのはためらわれてしまうのだけど。そういえば大江崇允『適切な距離』はまさに偽日記という観念にまつわる映画だったなあと思う。母親が自分の日記を隠れて読んでいることを知った男が、母親に読まれることを前提に認めた偽日記、いわば一方通行の交換日記。偽物でありながらなお日記であるという重力が、偽日記の孕むメディウムとしての再帰性なのだ。日記のなかの自分はもはやキャラクターであり、キャラクターとは自分の代わりに意志し、決断し、行動してくれる、あるいは意志せず、決断せず、行動しないでいてくれる装置だろう。わたしという発火現象をもたらす火打ち石。むろん火を打つのは他ならぬわたしであり、その他ならぬ性は偽日記という観念に憑依する。そういう呪術様式を、しかしできれば"小説"とは呼びたくないとも思っているのだった。