『暗殺教室』、(再)発見する/される主人公

群像劇については「グランドホテル方式」と「アンサンブル・プレイ」の二種類がある、というのが漠然とした認識だったのだけど、Web上の簡単な検索結果を遠目にさらう限りではその二つを区分けしない言及例も多く、そもそも語形を見るだけでも前者が様式、後者が様態をあらわす語であることは明白なのだからワンセンテンスに収めて不自然なことは何もなく、ことさら別物に扱う必要はないのかも知れないが、とはいえ前者が具体的な作品名に由来を持つうえその語感が時・所・事を一にするという三一致の法則を髣髴とさせるような条件を適切に伝えてもいるのだからそのことを尊重しても別に構わないのではないかとも思う……と言ったそばから、それでは『マグノリア』みたいな場所に縛られずアンサンブルも特に奏でることなくオムニバス的に展開される諸エピソードが共通の出来事によって横断的に"一時"に接続されてしまう類の物語はどう呼んだらいいのかという疑問が流し見ていたweb記事によって誘発されてしまってあからさまにどつぼの様相を呈してきたが、しかしながらやはり『マグノリア』に関しては日本版のテレビCMで(ほんの2〜3秒間の引用であれ)無情にもネタバレされてしまった"共通の出来事"によって無理やりかき鳴らされる不協和音よりも登場人物がまったく無意味に"偶然"同じ歌を口ずさむ場面のほうがはるかに感動的だったなあ、とかなんとかわれながら飽き飽きするような思考パタンの明け暮れで本当に自分というものに四六時中付き合わされるのは楽じゃないなあと思うのだった(とはいえ、自分の書くもの、話すこと、考えの何もかもがつまらないとは思っていても、より控えめかつ精確に言い直せば、自分以外の書くもの、話すこと、考えの何もかもが自分のそれよりつまらなくないとは思っていても、そうであることを自らに許容したまま事足れりとばかり呼吸活動に勤しんでいる以上それはつまり「自分に甘い」のだ、ということになるのだろうが、しかしそれはまた発語行為、分節化につきまとう不可避的なナルシシズムに由来する"錯誤"でもあるのだろうし……)。


それで『暗殺教室』15巻の感想を今更ながら書き留めておこうと思ったのだった。『暗殺教室』もまた紛うことなき群像劇に分類されるだろうが、またそうでありながら世の群像劇と同様に主人公に準ずる役割を果たす登場人物がいることも読者にとっては明らかだったはずで、むろんそのこと自体はいささかも瑕疵ではありえないし、むしろ何らかの起承転結をもって作品として群像劇を貫くとするなら"主人公格"の存在は不可欠であるとすら言えるのだが、『暗殺教室』は主人公格が主人公格たるその出自がテクスト上で再配置される、文字通りそして絵面通り「アクロバット」な展開と背中合わせのその論理の鮮やかさがことさら心憎いのだった。15巻でその意外な正体を表す人物は自分こそが物語の主人公だと確信している人物で、実際に『暗殺教室』という群像劇を存立させる最大要件たる殺せんせー、舞台であり舞台装置でありガジェットでありアマルガムでもあるその存在との間合いの取り方によってキャラクターの"格"が決まることをその人物は熟知しており、またそれゆえにその存在の"誕生"にかかわるおのれを主人公だとはっきりと自認し、そのうえで殺せんせー暗殺という目的遂行のため(すなわち自らが主人公でありつづけるために、主人公が主人公であるがゆえに負うその義務を果たすために)自分の身代わりとして潮田渚を主人公格に仕立てあげ自らは脇役へと擬態し群像劇の中に埋没したのだ。潮田渚は教室で一番最初に鉢合わせしたという理由で偶然選ばれたにすぎない。それは決してどこの誰でも代入可能であるということを意味はしないが、その時点で何らかの運命を感じるほどの積極性もまた欠いていたには違いないだろう。まず与えられ、それから獲得しなおすこと。奇しくも『アイドルマスター シンデレラガールズ』の主題と重なってしまったが、潮田渚はシンデレラではもちろんない。仕掛け人の告白によりその格を一度奪われた潮田渚は"キス"によって主人公の座を再獲得する、それはとても少年漫画的な儀式ではあるが、それでは彼が白雪姫や眠れる美女を起こす王子様かというと……たしかにそのキスは呪われた相手の覚醒を促すための、いやもっと強引に相手から正気を引きずり出すためのものであり、実際にそのように機能するのだが、潮田渚が『暗殺教室』の物語展開において果たしてきた主人公格としての様態を鑑みればどちらかと言うと『美女と野獣』の"美女"であると考えたほうがしっくりくる気がする(「渚きゅんはヒロイン!」という意味で)。キスとは触れることであり、同時に触れられることでもある。接続であり、同時に分割である。選ぶことであり、同時に選ばれることである。これが16巻における殺せんせーの長い告白のあとに生徒たちを一時におそう"世界の反転"の布石であることは明白だろう。生徒たちもまた彼らがその一部でもある『暗殺教室』というテクストを読み直し再解釈をしながら進む、という教育のただなかにあるのだ。