京都は立誠シネマにて平野勝之『太平洋の地獄 サイパン水着ギャルの戦争』と『青春100キロ』観た。「太平洋の地獄」は以前別タイトルでセルVHSとしてリリースされていた前編と、そのあまりの不評ぶりに発禁になったまま眠っていたいつか編集されて後編としてリリースされるはずだったフッテージを公開日ギリギリまで平野監督が編集して一本の映画に仕立てあげたもの。後編は発禁になったものの前編は世に出ているわけで、こういうものが商品として成立していた時代があったんだなあとついつい遠い目になってしまう。いや、逆か。それでもさすがに成立しえなかったからこそ現在までほぼ封印されほとんど語られてもこなかったわけで。バブル終焉直後だそうですが、サイパン水着ギャルを謳っておいてワンカット目がおばあちゃんのバストショット、それから軍服姿の井口昇や高槻彰という有様、ことあるごとにおばあちゃんの述懐や唱歌が差し挟まれ、他方で水着ギャルたちは水や砂やなまこにまみれてひたすらスタッフを痛めつけるようなゲームで「孤島で一泊」という罰ゲームを回避すべく得点を競わされる。プログレッシヴな悪ふざけと悪意によって引き起こされた混迷、混乱がやがて人の手を離れて暴走しはじめ関わる人間たちの怒号と涙と絶叫を巻き込みながら一つの企画を完膚なきまでの破綻へと導く、その様のドキュメント。これを二時間近く見せられたあとの『青春100キロ』の見やすさ、洗練、爽やかさといったらもう。とはいえここでも平野監督が鮭の産卵に喩えた極めてグロテスクな、しかしあの業界ではおそらくさして非日常的ではない光景が展開されもするのだけど、まあそれはそれとして。


そういえば『青春100キロ』上映後のトークで「平野さんは上原亜衣にもケイくんにも興味がないでしょう」と指摘されていたが、平野監督はそもそも今回の仕事依頼があるまで上原亜衣の存在さえ知らなかったようだ。もちろん自分もそうだったのだけど、彼女は1000本以上の作品に出演されている業界のトップランナーだそうなのでどこかで名前だけなら目にしたことはあったのかも知れない。ところで林由美香は生涯で200本以上の作品に出演し「彼女の全出演作を観たひとはいないのではないか」と言われていて、はじめは上原亜衣さんはたった五年ほどでその五倍も出演しているんだすごい果たして人間なのか……と驚愕したのだけど、今はweb配信とかも氾濫しているので単純にそういう比較はできないんだろう。そういえばケイくんにとっての上原亜衣も「動画のひと」なのだった。

なぜとつぜん偽日記という言葉が現前し、またそれをわざわざダイアリーに書きつけてしまったのかというとそれはまあやっぱり森達也『FAKE』を観たからなのだろう。本当に嫌になるくらい単純な頭をしている。ところでジョン・バース(なつかしい)の『金曜日の本』(おもしろい)には「この本の題」というタイトルの章があり、その一文目にはこう書かれている。

本の題はまわりくどくないものにすべきである。


少なくとも『FAKE』という題はじゅうぶんにまわりくどいと言ってもよいだろう。もちろんこの作品がドキュメンタリー映画でなければ『FAKE』というタイトルも率直なものでありえたはずだ。ドキュメンタリー映画はノンフィクションであり、劇映画というフィクションと対立的な表現様式である……ということはひとまず広く認識されている。仮に劇映画が「FAKE」と題されていたのだとしたら、それが偽物にまつわる物語であるということは容易に合点されるだろうし、事実それは「フェイク」の作曲家を巡る物語ではあったのだ。フェイク・ドキュメンタリーという劇映画のフィクションに対する一つの演出アプローチの傾向様式を示す言葉もあるが、いずれにせよそれがフェイクであることは端から自明視されている。しかしこの映画はあくまでドキュメンタリー映画である。そのことは誰も隠しだてすることのない大前提のはずだ(そうでなくては騙し討ちではないか。映画館では原則として「フランス料理屋に入ったら中華料理が出てきた」という援用する人間の安易さだけが際立つ粗野で胡乱な比喩に見合った出来事など起こらない仕組みになっている。かつて『スナッフ』というひどい映画があったそうだけど、あれもまあ見世物小屋の範疇だろう)。この作品が、あるいは森監督が自身の言葉でどれだけフィクションとノンフィクションの境界の曖昧さを標榜したところで、そうであればあるほど強くその前提は強化されゆく。境界が揺らがないこそ、その侵犯を安心して嘯くことができる……とはいかにも意地悪なひとが言いそうなことではあるけれど。


ところで『たまこまーけっと』というタイトルはまわりくどくない。主人公名と舞台を並べただけの極めて古典的な響きである(ただ確かにたまこは商店街の力学のただ中にはあるものの、家そのものは商店街から少し外れた場所にある。だからALICE IN WONDERLANDのようにその関係性は定位されていない、あくまで並列に並んでいるだけ、ということなのだろう。たまこにとって商店街とは場所であり、また通り道なのだ、だからこそマレビトであるデラは以下略)。『たまこラブストーリー』もまわりくどくはないが、ラブストーリーという言葉は純粋に作品内の事物であるとは言いがたい。物語の性質、ジャンル、ラベルに対する言及であり、外側への意識が感じられる境界的な表現。たまこはラブストーリーの渦中の人物ではあるが、彼女とラブストーリーのあいだにはいささかの参照関係も生じないからだ。たとえば『石中先生行状記』というタイトルとの違いがそこにある。ジョン・バースに言わせればこういう容れものと容れられているものの双方を名付ける、いわば半分だけ自己言及的な類のものは《自己再帰的な題》ということになるらしい(また新書やライトノベル棚にあって一時の流行りを超えて現代日本においていまや一定の座を占めている内容説明的文章型のタイトルの類には《自己顕示的な題》という名前が与えられている)。そして『FAKE』もまた自己再帰的な題であると言える。まるでクレタ人のパラドクスだ。でもいまさらクレタ人のパラドクスかよ? というのも正直なところなのだが、まあそれは森達也だって同じ意見だろう……と言い切れないのがこの映画の面倒なところでもあるのだけど。ドキュメンタリー映画だからといって真実とは限らないよね、でもそもそもなんだってそうだよね、それが人間の言語活動というものだからしょうがないよね……で終わっているのならそれは確かにいまさらかしこまってそんなわかりきったこといったいどうしたのよという話だし、周回遅れと批判されても(ついったーで実際に見かけた感想です)やむをえまい。


(作中、佐村河内守が自分を信じるか森達也に問う場面がある。具体的な何を信じるのかは言わない、とにかく自分のことを丸ごと信じるのか。そして森達也のことを「信じています」と言い切る佐村河内守に対して、森達也は「信じてなければ撮れないよ」「心中ですよ」と答える。この答えはまわりくどくないだろうか? 森達也を信じていると率直に言う佐村河内守に対して直接的に自分を投げ出すことなく、いったんその問いをドキュメンタリスト、視点人物という立場に引き寄せてからその行為に対する言及をもってその答えとしている。誠実さは疑うべくもない。そこに嘘はないだろう。だが……やっぱりまわりくどい)

かつて偽日記というサイト名を見たとき、このひとうまいこと言ったなあと思った。荒木経惟の『女高生偽日記』というタイトルはまだ大阪で面白い映画がやまほど上映されていたころ何かの特集上映の一作として見かけて、そのタイトルに心惹かれながらも観る気はまったく起きずにスルーしたまま現在まで巡り会う機会もなくおそらく今後もあるまいと思うし、いまとなっては偽日記という言葉は手垢にまみれてしまったというか、特定の一サイト(ブログ)とあまりに直結してしまっているため一般名詞的に使用するのはためらわれてしまうのだけど。そういえば大江崇允『適切な距離』はまさに偽日記という観念にまつわる映画だったなあと思う。母親が自分の日記を隠れて読んでいることを知った男が、母親に読まれることを前提に認めた偽日記、いわば一方通行の交換日記。偽物でありながらなお日記であるという重力が、偽日記の孕むメディウムとしての再帰性なのだ。日記のなかの自分はもはやキャラクターであり、キャラクターとは自分の代わりに意志し、決断し、行動してくれる、あるいは意志せず、決断せず、行動しないでいてくれる装置だろう。わたしという発火現象をもたらす火打ち石。むろん火を打つのは他ならぬわたしであり、その他ならぬ性は偽日記という観念に憑依する。そういう呪術様式を、しかしできれば"小説"とは呼びたくないとも思っているのだった。

『帰宅部活動記録』の美しさを語る前に

先日NHKで放映されていた株式会社カラーに所属する若手社員に焦点を当てたとおぼしきドキュメンタリー番組でカメラを向けられていた一人のアニメーターは震えた描線を引くことを欲望していて、原画昇格試験に際してそれを抑圧すべきか押し出していくべきか葛藤するという筋立てになっていたのだけど、現場の上司であり試験官でもある鶴巻和哉もまたアニメーション制作という集団作業においては仇になることが多いことを前置きしながらも最終的にはそれを(その欲望を)捨てがたい個性として認めていたように、それが作品の呼吸において"主線"でありうるならば震える描線は引くことができる……となれば、震えた声だってあっていいではないか、それが"主線"であることだってありうるはずではないか、と『帰宅部活動記録』の道明寺桜帰宅部部長こと小林美晴氏のことを思うのだった。


(キャラクターにとっての線とは輪郭線であり、輪郭線はその内側がキャラクターの領分であるということを絶えず宣言している。分離は接続の条件で、キャラクターは輪郭線に守られているからこそ背景や他のキャラクターに混じってしまうことなく画面に生息していられる。枠であり符号であるということ。枠は身体のいちばん外側で世界と接触するエッヂであるが、符号はあくまで概念的にしか存在しえない。すなわち枠が身体であるとするなら、符号は身体イメージである。身体イメージは世界認識にあって自らが自らであることの唯一無二の証ではあるが、結局それは自らの似姿によって自らもまた似姿であるという類推へと至るほかない。描かれた存在であるキャラクターに一般に言われるところの自我なるものが認められるのかというと、それはもちろんあるものとして、そのような遠近法のもと多くの場合は読まれているはずだし、ということはテクストにおいてキャラクターを「似姿において類推」しつつ、「唯一無二」として認識しているのは読者で(も)ある、ということになる。たとえば「キャラクターが立つ」とは読者とあらかじめ描かれた記号存在とのあいだにそのような共犯関係めいたものが成立する事態なのだと言うこともできるだろう。身体イメージという夢を読者とキャラクターが分かちあう。では声優はどうなのか。キャラクターという"環境"に声優という項が貫入されるに際してしばしば「生命が吹き込まれる」という表現が用いられる。単に事実として、アニメーションの制作工程において具体的な"主線"が引かれる前に声優があるという光景はごくごくありふれたものだと言ってもよいだろう。だがそんな制作工程における順番など関係なく、線が引かれるより先に声が存在するという事態はきわめて考えにくい、というかそうは決して考えられていない。声はつねにあとから与えられるものである、まるで出来合いの木偶人形に生命が吹き込まれるがごとく……と、そのように人は言うのだ。だがしかし、と思う。アニメーションにおいて出来合いの木偶人形に「最初に」生命が吹き込まれるのだと広く信じられているのは、引かれた線に線が重ねられた瞬間ではなかったか。さも動くことが生命の条件であると言わんばかりに、ご丁寧にお定まりの語源学的アプローチさえ携えて、静止画が動いてこそのアニメーションであるとその本質はしばしば嘯かれてきた。その言に従えば、アニメーションにおいて線が引かれるということはただ線が引かれるということではなく線が重ねられるということでもなくてはならないのだから、すでに線が引かれているというのならばそこにあるのはただの木偶人形などではありえないはずだ。にも関わらず声優という項が貫入されることで「そういうこと」になってしまう。それは身体イメージの根拠である身体が、必ず身体イメージが(類推的に)与えられた後に発見されるのと同様の事態であるようにも見える……。簡略的にも程があるが、声優とは線である、声優とは中の人ではなく外の人である、という命題をもし口にする機会があるとすれば、その時はおおよそこういうことを念頭に置いている)


声優は言語を伝えるための装置なのではなく、あるいはのみならず、声優が言語なのである、ということはどれだけ言っても足りることはない。

『暗殺教室』、(再)発見する/される主人公

群像劇については「グランドホテル方式」と「アンサンブル・プレイ」の二種類がある、というのが漠然とした認識だったのだけど、Web上の簡単な検索結果を遠目にさらう限りではその二つを区分けしない言及例も多く、そもそも語形を見るだけでも前者が様式、後者が様態をあらわす語であることは明白なのだからワンセンテンスに収めて不自然なことは何もなく、ことさら別物に扱う必要はないのかも知れないが、とはいえ前者が具体的な作品名に由来を持つうえその語感が時・所・事を一にするという三一致の法則を髣髴とさせるような条件を適切に伝えてもいるのだからそのことを尊重しても別に構わないのではないかとも思う……と言ったそばから、それでは『マグノリア』みたいな場所に縛られずアンサンブルも特に奏でることなくオムニバス的に展開される諸エピソードが共通の出来事によって横断的に"一時"に接続されてしまう類の物語はどう呼んだらいいのかという疑問が流し見ていたweb記事によって誘発されてしまってあからさまにどつぼの様相を呈してきたが、しかしながらやはり『マグノリア』に関しては日本版のテレビCMで(ほんの2〜3秒間の引用であれ)無情にもネタバレされてしまった"共通の出来事"によって無理やりかき鳴らされる不協和音よりも登場人物がまったく無意味に"偶然"同じ歌を口ずさむ場面のほうがはるかに感動的だったなあ、とかなんとかわれながら飽き飽きするような思考パタンの明け暮れで本当に自分というものに四六時中付き合わされるのは楽じゃないなあと思うのだった(とはいえ、自分の書くもの、話すこと、考えの何もかもがつまらないとは思っていても、より控えめかつ精確に言い直せば、自分以外の書くもの、話すこと、考えの何もかもが自分のそれよりつまらなくないとは思っていても、そうであることを自らに許容したまま事足れりとばかり呼吸活動に勤しんでいる以上それはつまり「自分に甘い」のだ、ということになるのだろうが、しかしそれはまた発語行為、分節化につきまとう不可避的なナルシシズムに由来する"錯誤"でもあるのだろうし……)。


それで『暗殺教室』15巻の感想を今更ながら書き留めておこうと思ったのだった。『暗殺教室』もまた紛うことなき群像劇に分類されるだろうが、またそうでありながら世の群像劇と同様に主人公に準ずる役割を果たす登場人物がいることも読者にとっては明らかだったはずで、むろんそのこと自体はいささかも瑕疵ではありえないし、むしろ何らかの起承転結をもって作品として群像劇を貫くとするなら"主人公格"の存在は不可欠であるとすら言えるのだが、『暗殺教室』は主人公格が主人公格たるその出自がテクスト上で再配置される、文字通りそして絵面通り「アクロバット」な展開と背中合わせのその論理の鮮やかさがことさら心憎いのだった。15巻でその意外な正体を表す人物は自分こそが物語の主人公だと確信している人物で、実際に『暗殺教室』という群像劇を存立させる最大要件たる殺せんせー、舞台であり舞台装置でありガジェットでありアマルガムでもあるその存在との間合いの取り方によってキャラクターの"格"が決まることをその人物は熟知しており、またそれゆえにその存在の"誕生"にかかわるおのれを主人公だとはっきりと自認し、そのうえで殺せんせー暗殺という目的遂行のため(すなわち自らが主人公でありつづけるために、主人公が主人公であるがゆえに負うその義務を果たすために)自分の身代わりとして潮田渚を主人公格に仕立てあげ自らは脇役へと擬態し群像劇の中に埋没したのだ。潮田渚は教室で一番最初に鉢合わせしたという理由で偶然選ばれたにすぎない。それは決してどこの誰でも代入可能であるということを意味はしないが、その時点で何らかの運命を感じるほどの積極性もまた欠いていたには違いないだろう。まず与えられ、それから獲得しなおすこと。奇しくも『アイドルマスター シンデレラガールズ』の主題と重なってしまったが、潮田渚はシンデレラではもちろんない。仕掛け人の告白によりその格を一度奪われた潮田渚は"キス"によって主人公の座を再獲得する、それはとても少年漫画的な儀式ではあるが、それでは彼が白雪姫や眠れる美女を起こす王子様かというと……たしかにそのキスは呪われた相手の覚醒を促すための、いやもっと強引に相手から正気を引きずり出すためのものであり、実際にそのように機能するのだが、潮田渚が『暗殺教室』の物語展開において果たしてきた主人公格としての様態を鑑みればどちらかと言うと『美女と野獣』の"美女"であると考えたほうがしっくりくる気がする(「渚きゅんはヒロイン!」という意味で)。キスとは触れることであり、同時に触れられることでもある。接続であり、同時に分割である。選ぶことであり、同時に選ばれることである。これが16巻における殺せんせーの長い告白のあとに生徒たちを一時におそう"世界の反転"の布石であることは明白だろう。生徒たちもまた彼らがその一部でもある『暗殺教室』というテクストを読み直し再解釈をしながら進む、という教育のただなかにあるのだ。