なぜとつぜん偽日記という言葉が現前し、またそれをわざわざダイアリーに書きつけてしまったのかというとそれはまあやっぱり森達也『FAKE』を観たからなのだろう。本当に嫌になるくらい単純な頭をしている。ところでジョン・バース(なつかしい)の『金曜日の本』(おもしろい)には「この本の題」というタイトルの章があり、その一文目にはこう書かれている。

本の題はまわりくどくないものにすべきである。


少なくとも『FAKE』という題はじゅうぶんにまわりくどいと言ってもよいだろう。もちろんこの作品がドキュメンタリー映画でなければ『FAKE』というタイトルも率直なものでありえたはずだ。ドキュメンタリー映画はノンフィクションであり、劇映画というフィクションと対立的な表現様式である……ということはひとまず広く認識されている。仮に劇映画が「FAKE」と題されていたのだとしたら、それが偽物にまつわる物語であるということは容易に合点されるだろうし、事実それは「フェイク」の作曲家を巡る物語ではあったのだ。フェイク・ドキュメンタリーという劇映画のフィクションに対する一つの演出アプローチの傾向様式を示す言葉もあるが、いずれにせよそれがフェイクであることは端から自明視されている。しかしこの映画はあくまでドキュメンタリー映画である。そのことは誰も隠しだてすることのない大前提のはずだ(そうでなくては騙し討ちではないか。映画館では原則として「フランス料理屋に入ったら中華料理が出てきた」という援用する人間の安易さだけが際立つ粗野で胡乱な比喩に見合った出来事など起こらない仕組みになっている。かつて『スナッフ』というひどい映画があったそうだけど、あれもまあ見世物小屋の範疇だろう)。この作品が、あるいは森監督が自身の言葉でどれだけフィクションとノンフィクションの境界の曖昧さを標榜したところで、そうであればあるほど強くその前提は強化されゆく。境界が揺らがないこそ、その侵犯を安心して嘯くことができる……とはいかにも意地悪なひとが言いそうなことではあるけれど。


ところで『たまこまーけっと』というタイトルはまわりくどくない。主人公名と舞台を並べただけの極めて古典的な響きである(ただ確かにたまこは商店街の力学のただ中にはあるものの、家そのものは商店街から少し外れた場所にある。だからALICE IN WONDERLANDのようにその関係性は定位されていない、あくまで並列に並んでいるだけ、ということなのだろう。たまこにとって商店街とは場所であり、また通り道なのだ、だからこそマレビトであるデラは以下略)。『たまこラブストーリー』もまわりくどくはないが、ラブストーリーという言葉は純粋に作品内の事物であるとは言いがたい。物語の性質、ジャンル、ラベルに対する言及であり、外側への意識が感じられる境界的な表現。たまこはラブストーリーの渦中の人物ではあるが、彼女とラブストーリーのあいだにはいささかの参照関係も生じないからだ。たとえば『石中先生行状記』というタイトルとの違いがそこにある。ジョン・バースに言わせればこういう容れものと容れられているものの双方を名付ける、いわば半分だけ自己言及的な類のものは《自己再帰的な題》ということになるらしい(また新書やライトノベル棚にあって一時の流行りを超えて現代日本においていまや一定の座を占めている内容説明的文章型のタイトルの類には《自己顕示的な題》という名前が与えられている)。そして『FAKE』もまた自己再帰的な題であると言える。まるでクレタ人のパラドクスだ。でもいまさらクレタ人のパラドクスかよ? というのも正直なところなのだが、まあそれは森達也だって同じ意見だろう……と言い切れないのがこの映画の面倒なところでもあるのだけど。ドキュメンタリー映画だからといって真実とは限らないよね、でもそもそもなんだってそうだよね、それが人間の言語活動というものだからしょうがないよね……で終わっているのならそれは確かにいまさらかしこまってそんなわかりきったこといったいどうしたのよという話だし、周回遅れと批判されても(ついったーで実際に見かけた感想です)やむをえまい。


(作中、佐村河内守が自分を信じるか森達也に問う場面がある。具体的な何を信じるのかは言わない、とにかく自分のことを丸ごと信じるのか。そして森達也のことを「信じています」と言い切る佐村河内守に対して、森達也は「信じてなければ撮れないよ」「心中ですよ」と答える。この答えはまわりくどくないだろうか? 森達也を信じていると率直に言う佐村河内守に対して直接的に自分を投げ出すことなく、いったんその問いをドキュメンタリスト、視点人物という立場に引き寄せてからその行為に対する言及をもってその答えとしている。誠実さは疑うべくもない。そこに嘘はないだろう。だが……やっぱりまわりくどい)