近頃といえば挨拶はもっぱら「ウバル?」や「ウッフーイ」ばかり



 保坂和志の「桜の開花は目前に迫っていた」を遅ればせながら読んだ。氏の公式ホームページではエッセイ集のページに掲載されている。だけどわたしはこれを小説として読んでしまった。小説として読んでいて、おもしろいかどうかよくわからず、それでもいつのまにかおもしろく、読み終わってすこし元気が出たが、それでも素直におもしろかったとはやっぱり言い難い。

 <その人といっても私といっても同じことで>という書き出しでこの小説?ははじまるが、そのくせ最後までとうとう「私」は出てこない。同じように「あの人」とか「カッちゃん」とか「マーくん」とか固有名詞が別の言葉に置き換えられるのだが、一方でモーニング娘。やら『カンバセイション・ピース』やら柏戸やらと固有名詞が遠慮なく並べられていく。

 大相撲の春場所をやっているからいまは「春」なのだ、とはその人は言わない。なぜならその人は相撲に関心がなくたまたまテレビをつけっぱなしにしていたら大相撲の中継がはじまってそれでようやく相撲のことを思い出したにすぎないからだ。しかしその人は隣の家の「ルイちゃん」には関心があるようで、騒がしいのは<卒業式を終わった一人娘と友達たちが集まっている>からだとあたりをつける。もちろん卒業式があったから「春」だとも言わない。その人は気象情報が好きで、高気圧の動きも把握している。だから「春」だとは言わないが、東京の桜の開花は目前に迫っている。あくまでその感覚があって、その感覚とその人の身体の向こう側に気象情報だとか卒業式だとか大相撲春場所だとかはある。だけどその人はやっぱり気象情報が好きで、また気候や季節に関する知識があらかじめあって、だからこそ東京の桜の満開が目前に迫っていることを感じることができる。だから(打ち消しあってとは言わないが)そこで「ある」だけが身体に残るのだけど、大相撲中継も隣の家の喧騒もつづく。そこでその人は自分の名前が出てくる阿部和重中原昌也の小説に対する返事を書こうと思い立つからさらにややこしくなる。この小説は文章と文章のあいだの段差がチグハグで、そこを「桜の満開は目前に迫っている」という感覚だけで渡っているようにも見える。しかしそれは感覚ではなく実際に桜の蕾は膨らんでいるし、それは<すでにじゅうぶん>と言えるほど膨らみきっている。そして事実、翌日開花する。