お気に入りの映画のことを「この映画が本だったらよかったのに。いつでも読み返せるから」と言っていたのは誰だったか(と書いた端からひょっとしたら一條裕子だったかも知れないと思いはじめていてならばそれは何の映画だったのだろうかと考えはじめると同時にその発言の出典もそれが部屋のどこの隅のどの本の下に埋もれているかまで正確に思い出してしまったけどなんかシャクだしそもそも嫌いな本なのでわざわざ手にとって見ることはせずそうこうしているうちにどうやら一條裕子だったらしいということが頭の中で確定してまもなく映画のタイトルも思い出した。『マカロニ』だ)。ともかく音楽ほどではないが映画は観る者とは無関係にそこに流れ、ぼんやりしているとそのまま何にも定着することなく消えていってしまう。すでに文字としてそこに定着している小説とちがって……ということだけど、だからこそ映画や音楽は受け手のあるなしに関係なく成立し、小説は受け手との関係の中にしか成立しないのだと思う。つまり音や映像は身体の外にある「物」で、それを知覚することによってひとまず直接的に享受するものだけど、言葉はそれ自体では何にも対応していない記号でしかないわけだから知覚がそのまま何らかの享受とはならず抽象を経ないといけない(「ページをめくる快楽」だって実際は抽象的だ)。とはいえそれは分類ではなくひとつの言い方で、音楽はどこにだって発生するけど映画や小説はメディア(媒体)を介さないといけないと言ったっていいし、映画も小説も音楽もとりあえず線的な受容の層の積み重ねによって経験されるほかないと言ってみてもいい。


 侯孝賢珈琲時光』を観終わってすぐに「読み返したい」と思ったのは出演者クレジットの蓮實重彦におどろいたからではなく(たしかに「観返したい」とは思ったし本人によるコラムまで読んで出演シーンを確認してみたけどどうやらカットされているみたいだ。直後に古本を買い求める氏のカットが入るはずだった古本屋のカウンターに座る浅野忠信の元に近所の珈琲屋のマスターが出前にやってきて、これは一青窈の心遣いなんだけど、浅野氏が臆することなくしかしあわててカウンターの上を片付ける場面は(マスターが出口で自転車にぶつかりそうになるところを含めて)すばらしく、もっとも印象に残っているシーンのひとつで、特にこのシーンで際立ってそう思ったわけではなくこの映画全体の印象としてこれを見たらもう浅野忠信のエキセントリックな演技は見られないなあと思ったんだけどおそらくもうあまりそういう役を引き受けることもないと思う)たとえばこの映画の中で繰り返しあらわれる山手線の立体交差の俯瞰ショットの長回し一青窈浅野忠信の寄り添いながらも交差する緩やかに宙吊りとなった関係の象徴となる前にひとつの東京のイメージとして現前し、しかし像として定着することなく散り散りと映画の時間の中に拡散していくように感じたからだったりするけどそれはやはり「受容の層の積み重ね」のうちに感じたことだから読み返しても(そしてかように記述しても)再現はできないのだろうがやはりぼくはページをめくるようにこの映画の時間を出たり入ったりしたいと思った。


 長回しとはいったいどういう事態なのだろう……とふと思ったのは浅野忠信とふたりで彼自作のCGアートを見ているときにふとアップになった一青窈の横顔があまりにも生々しくてドキッとするどころか暗闇でひとりのけぞってしまったからで、普段はずっと頑固に、物憂げともいえる鈍重さで人物の動きを追い、彼らが枠から出ていってしまうのも厭わずじっと外側から聞こえてくる話し声や行為の物音を聞き、ふたたびフレームに戻ってくるとまた大儀そうに動きを追いはじめる、その視線が不意に孕んでしまう物質性というものを観ながらずっと感じていて、なぜ監督が一青窈を主役に抜擢したかわからないけどたしかに髪を後ろで結いいつも薄着で洗濯物を干したり肉じゃがをほおばる彼女の姿はそれだけで生々しく、会話もセリフでありながら生の会話に近いトーンで、加えて低い視点の長回しとくればこれはどう考えても盗撮の視線に間違いはないのだけどやはりそうはなっていなくてそのことを決定的に告げるのが一青窈の生々しい横顔であり、コマ落としのように軌跡を残しながらカメラの前を横切る往来の車なのだと思う。この映画はストーリーらしいストーリーもなく、差し挟まれるエピソードや出来事もほとんど宙吊りのままどんどん置き去りにされていって、まあこれは「退屈な日常」なのかも知れないけどだからといって観ているあいだ中この映画を退屈だと思ったことは一度もなかった。その前に観たオリヴェイラ永遠の語らい』(の前半)は退屈さのスペクタクルという感じだったけど……。