おかしな言い方だけど黒沢清ってつくづく信用できる男だなあ……と彼の言葉に接するたびに思ってしまう。高橋洋は黒沢氏を「本音を言わない男」だと言っているけどもちろんだからこそ信用できるということで(とはいえこの「だからこそ」は「本音を言わないからこそ」という意味ではない。たとえば生前JOHN LENNONは自らの言動の一致に少なくとも公的にはあまり頓着しないたちで、というか記憶力が極度に悪いのか自らの言動を平気な顔で何度も翻すというか忘れてしまうので少なくともその内容をとても真に受けてはいられないのだけどその記憶力の悪さの身振りとその持続においてのみ彼を信用する……がもう死んだ人間なので関係ないといえば関係ない。ここでふと「人体実験」という言葉を思いつくが特に深い意味はない。たぶんいまパラダイス・ガラージの『ROCK'N'ROLL 1500』を久しぶりに聴いているからだろう)、もちろん高橋氏だって本気で黒沢氏に言うべき「本音」があると思っているわけじゃないだろう。


 2週間くらいもう経ったかと思うんだけどピピアめふという建物に黒沢清はとつぜんやってきた。宝塚映画祭と銘うたれたイベントの最終日に招聘されただけなのだが、この建物がある阪急宝塚線売布神社駅というのがまた(失礼ながら)辺鄙なところで、やたら幅のせまいプラットフォームから改札を出るとすぐに申し訳程度のショッピングモールというかデパートがあってそこを抜ければそのままピピアめふに昇ることができるので迷わなくてよい。デパート自体は一分かからずにフロアをひとまわりできるような規模のもので、ピピアめふへ向かうとき老夫婦らしき男女が狭いカウンターの中で身体を寄せ合ってじっとしている本屋さんを横切るんだけどその向かいでは福引の抽選会をしていてちょうどそのとき誰かが当たりを引いたらしくちょっとした歓声と雑で音だけは大きいベルの音が鳴っていたので後ろからちょっとのぞいてみると賞品は家電や生活用品や旅行券などではなく小銭つかみ取り一回分の権利で賞の位があがるごとにつかみ取りができる小銭の額もあがっていくのだった。それはともかくそこで黒沢清トークに挟まれる形でレア度だけはかなり高いと思われる古いテレビ作品を二本ほど観てから無防備にロビーで宝塚関係者のお偉いさんと名刺交換をしたり映像関係志望者と思われる若者たちの話を聞く黒沢氏の姿を横目にピピアめふを降り、今日も信用できる男だったなあ……とうなずきながら帰ることができたのは「宝塚」という縛りがあるため痒いところになかなか手が届かないもののそういう縛りがないと聞けそうもないような興味深い話が聞けたからというだけではなく(監督中心的な撮影所の仕組みとか、宝塚映像での仕事は基本的に他人主導の企画でそのことがのちのVシネマに繋がったとか、他人主導の企画だって制作過程で自分がかかわっていかなければならないし自分で考えた企画だって制作過程で他人の手が加わったり左右されたりするので結局は同じなのだということに気づいたという話とか)、黒沢氏の上品で柔らかな物腰がやはり印象的だったからだ。ちなみに生黒沢を見るのは『ドッペルゲンガー』の舞台挨拶につづいて二度目。


 ひょっとしたら学生時代だったら「人より作品を」と言ったかも知れないし実際に言ったこともあるのかも知れないけどそういうものでもないことはわかるし、かといって「作品より人を」と言ってしまっても結局は同じことだ。こと黒沢清に限っていえば『アカルイミライ』という決定的な作品を撮ってしまってからはますます「人を」とも「作品を」ともいいづらくなっていると思う。決定的、といっても別に何かの分水嶺だとか後戻り不可能地点だとかそういうことではなく、同時期に公開されたそのメイキング映画のタイトルに倣えば「決定的に曖昧だ」ということ。そのタイトルは『曖昧な未来』といったが、いうまでもなく未来は曖昧なんかではない。未来が明るいのではなくただ「明るい未来」があるにすぎないのだということと同じ意味で(オダギリジョーが冒頭で「夢で見る未来はいつも明るかった」と言い、デジカムで捕えられた粗い光の粒子が映画を立ち上げていく)「曖昧な未来」は確定的に存在している。『アカルイミライ』のあけすけでありながらざらついた肌触り、不穏で息苦しく希望が真ん中にしかしぞんざいに置いてあるようなこの映画の前にいったん立ちどまってしまったらたとえ一度そこを離れてもつい何度も足を向けてしまわざるをえない。黒沢清はいったん『ドッペルゲンガー』のほうに行きはしたけど……。