スプーンを曲げることができなくなってどのくらい経つだろう。とはいえかつて神童だった少年が年齢とともに能力をうしない……という劇的な話ではなくただ曲げられなくなった。その前にスプーンを曲げる、曲げるものとしてのスプーンという認識そのものを長らく手放していて、ある日ふと思い立って曲げようとしたけどちっとも曲がらない。曲げるには何も超能力に頼る必要などないし、どこかのツボを突くだとか力の入れ方がどうだとかそういう具体的なコツがあるというわけではなくただなぞるだけでよくて、スプーンは曲がるという感覚を、より厳密に言えば(スプーンを実際に曲げる前に)「スプーンは曲がってしまった」という先取りされた実感としてなぞることでスプーンはいつのまにか曲がってしまっていた。歪つに柄先のくねったスプーンでカレーを食べた。ホワイトソースもかき混ぜた。しかしそのスプーンはいつのまにかなくしてしまった。あるいはもとに戻して食器棚にかえしておいたのかも知れない。他人の家ではそうした、一度だけ、こっそり。こっそりといえばいつも「こっそり」で、曲げたところでだれに見せびらかすわけでもなかったしその話さえ聞かせたことはなかったけど、ひょっとして見せびらかしたりしていればいまでも曲げられていたのだろうか。


 『カンバセイション・ピース』の中ほどで「スプーン曲げというのは特殊能力で能力というのはつねに一定のものではなくコンディションなどに左右されるものだからもう一度やって曲げられなかったからといってスプーン曲げが嘘だということにはならない」という話がちょっとだけ出てきて、これを読んで即座に森達也(だったと思う)が超能力者の清田くんに取材していたテレビの深夜番組を思い出したんだけどその番組で清田くんが語っていたことは本当にこのくだりに書いてあることそのまんまで、おそらく作者はこの番組を実際に観るかこの番組について書かれた記事を読むかしているのだろうけどひょっとしたら目の前に事実(テクスト)にあわせて記憶を多少都合よく成型してしまっているかも知れない。というのもほとんど連鎖的に『ちびまる子ちゃん』の単行本の余白に書かれた清田くんについてのエッセイというかコメントも思い出したからで、たしか友人である清田くんに対する「スプーン曲げができて何の役に立つのか」という批判について「何の役に立つのかということではなくスプーンが曲がるのだ、それが超能力であり、そこがすごいのだ」といった趣旨のことを書いていたような記憶があるしだからこその連想なのだけどこれだって都合よく再構成され動員された記憶でないとは限らない。しかし正確な記憶が不正確な記憶にたいしてもつ優位はまさにその正確さだけだし、その正確さは記憶の正確さゆえの説得力をもつだけで文字どおりそれは記憶の正確さに保証される程度の説得力でしかないのだけど、事実にメタレベルはないのだから不正確な記憶もまた事実にはちがいないが別にそのこと自体が何かに還元されたり誰かが何らかの恩恵を得るということはないだろう。


 いまもきっと世界のどこかのお茶の間でスプーンが曲げられているのか、と想像すると……