感想



 心理をまったく欠いた心理劇……という言い方が許されるのならそう呼ぼう、Jean Renoir『浜辺の女('46)。観ていてひたすらおもしろいのだがけっきょく終わったあとは何が何だかわからなく唖然としたまま忘れてしまうことを余儀なくされる。観ている最中はシンプルだなあ、余計なもののない映画はいいなあとさえ思っていたのだけど終わってしまえばなぜそんなトンチンカンな思いに浸って平気でいられたのかがまるでわからない。この映画がルノワールの映画の中でどのような位置づけにあるのか、どのように遇されているのかは見当もつかないし調べてみようとも思わないけど、やっぱりどのような監督のフィルモグラフィーであれこのような映画は化学作用の突然変異のようなものでかなり扱いづらいのではないか。観ながらずっとCoffin Joeのことがなぜか頭から離れなかった。この作品を撮ったルノワールが吸血鬼映画を撮っていればきっとコフィン・ジョーの『おまえの魂いただくぜ!!!』(これ自体は吸血鬼映画ではないですが)みたいな感じになっていたと思う。

 
 たとえばこの映画を「過去という妄念からの解放」という言葉で秩序立てて俯瞰することは到底できない。部分部分ではできるし何食わぬ顔で要約することも不可能ではないのだけど書き割りのようで奇妙な奥行きのある画面で起こっていることを細かく拾い上げていこうとするならあまりのチグハグさに収拾がつかなくなるだろう。主要人物は中尉と彼を魅惑する女とその夫である盲目の画家の三人で、たしかにそれぞれが「過去という妄念」とやらの中で暮らし、追い詰められているように描かれる。中尉はかつての海戦時の悪夢(映画は水と炎と女の異様なモンタージュからはじまる)に悩まされ、女は夫を失明させてしまった責任の重圧により自らを縛り付け、画家は二度と描くことのできない自分の絵画をまた(いまや目の見えない彼にとっては)かつて美しかった妻をそれが抑圧であると知りながら決して手放そうとしない。これ自体はなんともわかりやすい……というかシンプルな構図だし各々の役割もはっきりしていて、そして中尉が女に魅了されることで三者の妄念がぶつかり合い、またぶつかり合うことで向き合わざるを得なくなっていく……というように心理ドラマが進むならば問題はないし実際にそう進んでいるように見えるのだけど実はところどころがチグハグで、心理劇としての三者の役割は役割としての結構を残しながらもほとんど機能不全寸前まで振り切ってしまっている。家のそとで、あるいは朽ちた難破船の一室で中尉と女が熱い抱擁と口吻をかわし、いかがわしいまでの仰々しさで劇伴がふたりの突如として燃え上がる想いをじゅうぶんすぎるほどに彩る……しかしそれは「突然炎のごとく」というよりは炎そのものなのだ、そのままふたりがその場で本当に燃え尽きてしまったとしてもこの映画ではいささかの違和感もなかったろう……人体発火、スポンティニアスコンバッション、なんてことだまたトビー・フーパーじゃないか! そして実際なにがどうしたのか画家が絵画に火をつけて家ごと燃やしきってしまうことで唐突にこの心理劇に幕が引かれる。いったいこれはなんだったのか。また観ようと思う。