(最近二度目の通し観を果たした『学園戦記ムリョウ』というアニメ内でもおそらくわずかに掠っていた事柄なんだけど)あらゆる系譜から切り離された「絶対的な孤児」というのは条件の産物でしかないように思うのだが、それはともかく目下関心のある作品から取り分けられ摂取された血やら肉片やらの様々な痕跡をほとんど理論や根拠を取っ払う形で次々に拾い集めてしまう癖があって、たとえば最近ならばこうの史代夕凪の街 桜の国』に全然タッチの異なるあすなひろしを感じてしまったりするわけだけどそんなものはかわいいほうでシェリーの『フランケンシュタイン』についてはさらに深刻なことに昨日観た『AIR』劇場版までが原形を留めぬヴァリエーションに見えてしまう程度には病状が進行してしまっているのだが(ひょっとしたら真剣に手間隙かけて『AIR』評でも一本書けば他人と共有できる形で論理の筋道を開陳できるのかも知れないができなかったらどうしようとも思うのでやはり書くのはやめておく。ちなみに映画自体は豊かさへの志向が感じられ明らかに失敗はしているし原作を中途半端に歪め中途半端になぞるもどかしさはあったものの最終的にはいい作品だと思ったしこういうものがもっと増えてくれればおもしろい。ところでパンフレットに寄稿されていた佐藤心によるゲーム『AIR』評にはいささかげんなりさせられた。こういう書き方を定着させることが東浩紀の評論活動なのだとしたらそんなものは愚にもつかないでっちあげた内輪の越境ごっこでしかないと思うのだけど彼自身によるゲームのレビューをいくつか読んでみた限りでは必ずしもそうではなさそうだしそもそも佐藤氏にとってさじかげんの難しい仕事であったとは思う。余計なことを書いてしまったなあ)黒沢清の『ドッペルゲンガー』(のモティーフの一部分)が『フランケンシュタイン』だということはまったく奇妙でも斬新でもない連想なのだけど実は今回の場合事態は逆で怪物がフランケンシュタインにはじめて話しかけるくだりを読んでいていきなり役所広司の声が聞こえてきて、というかああ役所広司が喋っているなあとしか思えなくなってしまってそこでなぜかと遡って考えてみると『ドッペルゲンガー』に易々と辿りついてしまったという次第で、それがなんだか妙におもしろかったのだった。とはいえ身の上話に移るころには役所広司の姿は完全に消えていたわけだけど、細部が膨れ上がって作中のトーンをひっきりなしに変えてしまう感じが好きで(ジュリアン・グラックを連想させる場面とかあるわけだ!)……『ドッペルゲンガー』のようにあからさまに変調のための変調を繰りかえすようなやり方では結局セルフパロディのような作品しか生まれないだろうが。