ただ観念の教室でのみ「一度きり」は許される。ゆえにSasha Sokolov"A SCHOOL FOR FOOLS"についてこれからは書く、何年(何年!)かかっても、何度でも、執拗に、徹底的に、それを心掛け、誰に読まれることなくとも、そしていままでも書いてきたつもりだ、何について書いているかよくわからないとき、あるいは何かについて書いているとき、何についても書いていないとき、だらけているとき、冴えないとき、つまりその記述のほとんど……その半分くらいは「それ」あるいはその準備の立ち遅れ、ときに先取りされた後片付けにあたるのだという宣言をここにぞんざいに呈示しておく(何年前だか忘れたけど貝澤哉による抄訳というか冒頭部ほんのわずかとはいえ現在までSokolovのただひとつの邦訳「パリサンドリア」の掲載された『現代詩手帖』91年五月号を京都の何の考えもなくそのときはじめて入ったもはや場所さえもおぼえていない小さな古本屋であっさりと見つけてしまったのは僥倖といえば僥倖だがあまりに呆気なさすぎて喜ぶ間すらなく、ひょっとしたらDESTROY ALL MONSTERSの作品集とかいまは亡きXROGERレーベルの『偽・水色時代』とかを見つけてしまったときの方がその結果はともかくとしても喜びは大きかったのかも知れないが、それはそうといまだにそれ以上のソコロフの翻訳の一冊も、一章、一頁、一行たりとも国内で翻訳/出版される兆しがないというのはいったいぜんたいどういう先の成り触れなのか?実はいま密かに準備中なのか、それとも翻訳/出版できないのっぴきならぬ事情があるとでもいうのか。だれか教えてください。難解だとはいえ翻訳は日本語の方が馴染みやすいように思うのだが……正直英語だけではわかりづらいところがあるし、amazonではロシア語のペーパーバックらしきものも手に入るようなのだけど情報を見る限りでは表記がアルファベットのようなのでいまひとつ取り寄せる気にはならない、ロシア国内での発禁処分がどうなっているのかつかめないのでとりあえず取り寄せてみようとは思うけど)。


  ゲーム『ひぐらしのなく頃に』を読みながら。そんなことは別にいまはじめて思ったわけでもないだろうし、とうぜんわかりきったことで、いうまでもなく誰もが了解していることかも知れないし、てんで見当外れゆえに誰の同意も得られぬかも知れず、必ずしもいつどの条件下でもそう思うわけでもなく、場合によってはまったく逆のことを思っているだろうしそう明言だってするのだけどそういうことすべてが「この」小説が書かれることの根拠になるわけでもなくまたなるわけでもないのに書かれてしまっているということがそう言い訳めいた前置きを付帯させたところで保証されるわけでもなんでもなく……また羅列すれば内容としては(つまり形式と二分できる程度の、読者にあらかじめある参照事項としての「内容」)じゅうぶん理解できるものの羅列として線的に呈示されている時点でほとんど別のものになっていて、けっきょく何もいわない、何も書かないことがもっとも「この」作者にとって倫理的で賢い振る舞いとなってしまう。しかしそれが虚構として自立していることに意味があるとすれば、またそれは誰にでも意味があるわけでもないだろうし「わたし」とて誰かの集積であるといえばあるのだけどそういったことも含めて「この」小説が一回限りの虚構として成り立っていることでその外部のことを読者は考える必要がなく、まさに一回限りの世界として読むことができ、また一回限りのものとして読まれるたびにその瞬間だけ外部に触れる。クッツェーの小説のように露骨にテクストの外側と対応している「内容」でさえも『エリザベス・コステロ』のように書かれている限りにおいてはそうだと思う(市井で用いられる方法というか読者サービスとしての「メタフィクション」とは何の関係もない)。そしてそのとき小説は必ずしも本の形をとっているとは限らない。


  (ところで『ひぐらし』がそういう作品なのだと直接的に指示したいわけではなくこのゲームをしながら、つまり誘発されてぼんやりと頭の隅で考えていたということ。こういう「上の空」は少なくともぼくにとっては積極的に歓迎すべきもので、むろん積極的に上の空になるというものではないけど眼前のテクストが退屈だということを意味はしないし決しておざなりにしているわけでもない。誤解を承知でいうがフィクションに集中して取り組んでその内容を残さず頭に入れて保管したって仕方がないではないか。小説は「あなた」に向かって開かれている。しかし「あなた」とはあくまでも純粋な二人称であって必ずしも手に取る読者をさすものではない。しかしわかりやすさを優先して便宜的にそういったってかまわないだろう。そういう幅、いい加減さを小説は許してくれる)