具体的に何かに煮詰まっているわけではないしそもそも煮詰まるほど意識的に何かに取り組んでいるというわけでもなくただその日暮しで緩慢に生きているだけなのだから強いて言えば「生きる」ことに煮詰まっているということなのかも知れないけどそんなことあまり積極的に認めたくないしわざわざ言明化するのもあまりに馬鹿馬鹿しく、またそういったことすべてをひっくるめて「生きている」という状態に晒されるほかないのだから煮詰まるも何もないのだけど「生きる」という指折り数え上げることのできる営為と「生きている」というひたすら過酷で無為な状態のすりあわせに綻びが生まれ、とうにあった綻びが急速に身体の節々や知覚や言語の末端に滲み出てきて、やがてそれは生の重みとして、しかし物質のようにいずこかに堆積することなく不断のずれとして身体の表面に刻まれていく。そういう面倒くさいことを意識してしまうときこそ……というわけでもなく、何となく気紛れにおかざきけんじろう/ぱくきょんみの『れろれろくん』という絵本を眺めていて、古屋兎丸の極度に形式的な『Palepoli』という作品を思い出しながら実際に手にとってめくり、いつのまにかちょっとばかり気分が高揚していた。


  ところで古屋兎丸は『Palepoli』を描くにあたって(漫画の文脈からは疎外されていたので)ミニマルアートの形式を採用した、といった意味のことを言っていたように思うが『れろれろくん』はテキスタイルのように最低限のキャラクター(れろれろくんとよっちゃん)が歪められ、重ねられ、分裂され、並べられ、英語と日本語が配置された抽象空間を浮遊しながら横切っていくという形になっていて、はじめから終わりまで一気に読むことで(視覚としてというよりは絵本として、テクスト全体として)「横切る」という運動が生じていることからこれはやはりコマのない漫画という感じがする……ということで古屋兎丸を思い出し、そこから吾妻ひでおの「完全なるプティアンジェ」を通過して(これは最近古本で『海からきた機械』を買ったから。未読作を期待したのだけど七割方、表題作さえも読んだことがあるものだった。しかしこれは吾妻氏の短編集では最高のものではないだろうか。かつての吾妻作品のきっかけにしていまだにいちばん好きな「ローリング・アンビバレンツ・ホールド」も入っているし。ところで『ななこSOS』文庫版の表紙はとてもかわいくて新作のほかの漫画と並んでいても目をひくように思う)最後に当然のごとく榎本俊二の『Golden Lucky』に行き着いて我に返りいつのまにか気分も落ち着いていて例によってまた気恥ずかしい気分でいっぱいになってしまった。