《最近はいつも部屋を出がけに隣室の新聞を抜き取り、そっとバッグにしまい込んでそのまま外出することにしている。したがって折込チラシごと新聞を持ち歩くことになる。しかし新聞は読まず、かといって捨てもしない。当日に刷られたという事実はどこかありがたく感じられるものだ。何か平たい物を入れておかないとキルト地のトートバッグがしゃんとしないという、ごく実際的な理由がないこともないが。》


  打ち捨てられた最大限の共感を歯で毟りつつそういう心持ちで夜歩く、両手に棘だらけの膨れた買い物袋を持ち、バッグがずり落ちないよう懸命に肩をいからせながらガードレールの内側に無数のfigure of eightを描き、埋めこまれ、やがてはるか背後で消え去るのだろうが見えないのだからおよそ関知したことではない。いまもっとも読みたいのは弟の日記だ。物心ついたころから一日も欠かさずつけられ、今日まで他人の目から完全に隔てられたままなお細々と更新されつづける我が弟の日記!そのいとおしい手癖、呪わしく気だるい統辞、見慣れた嘘、虚言、告白、説話を装った夕食の献立表、架空の生活白書、休止、ピリオド、空白、寝言、宣告、誤字の脱字、脱字の誤字、気まぐれの韜晦、字訳、翻訳、注釈の注釈の注釈の注釈……。いま書かれたことは三行後には裏切られる、その裏切りは二十七文字ごとにそれぞれ矛盾しながら反復される、引用と称してでっち上げの詩文が刻まれ、でっち上げの自論を溶解しかかった固有名詞の群れが寄ってたかって切り刻む。もうそろそろすべて忘れたっていいころじゃないか。「面白さ」なんてものにいつまでこだわっているつもりか。つまらないものにいつまでかかずらっているつもりか。さっさとTSUTAYAで『ギャラクシー・エンジェル』を何シーズン目でもいいから借りてこい(「A」であればなおいい)、なんとしても"Doctor Mabuse"を観ろ、Ilhan mimarogluを聴け(ついでに名前を諳んじられるようにしておけ)、清原なつの忘れ物BOXも忘れずに読んでおけ、いや、もうなんだっていい、もうどうでもいい……とにかく自殺を知らない幸福な記憶をただちに放逐しよう、記憶とその翼賛者をどこかの無人島(サッカースタジアムでもいい)に集めてまとめて焼き殺してやろう。これ以上新しいものが作られないことだけを切に願って……記憶はすべて日記帳やフィルムやカンバスやダンサーの肉体さばきに任せてしまって。伝わらないことへのおののきと、伝わってしまうことへのおそれのあいだで、誰よりも大胆に!……読みたい、弟の日記が。