冨永昌敬京マチ子の夜」を観た。映画というものはそもそもわけのわからないものだった、幼少時に映画館で観て衝撃を受けた『グレムリン2』というすばらしいゾンビ映画からしてわけがわからないまま興奮するほかなかったし、それ以降一貫して映画というものは意味不明で手に負えずいたずらに敬して遠ざけておきながらも眼前に迫れば必死に愚直に手を伸ばしそれでもほとんど触れえぬ厄介な代物で、しかしだから映画は尊い、映画は神聖だということは微塵もまったくこれっぽっちもなく単にどこの馬の骨ともわからぬ胡散臭く気の置けない乱暴者だということでなるべくかかわらないほうが身のため、ピクニックに行こう、部屋で小説を読もう、「さあ、エロゲーやろうぜ」と魔法の言葉をつぶやくだけでもいい、音楽に身体を通過させ、絵画の前で途方に暮れるほうが圧倒的に正しいしわかりやすい。映画だけだ……本当に忌まわしいし何度観てもさっぱりわからないしそもそもわかるとはどういうことかさえ見当がつかない。そもそも「京マチ子の夜」は映画ではなく菊地成孔の同名曲のために作られたミュージックビデオなのだけど映画館でかかっているものが映画だとは限らないように(あるいは映画館でかかっていさえいればなんだって映画なのだから)この作品もまたいまだ映画館にかけられていないだけで映画以外のなにものでもない(という程度のものでじゅうぶんだ映画なんて)。画面を何人かの人間が横切り、留まり、外を気にしながら叫び、行為に耽り、それらが機能不全のナレーションとともに貼りあわされ、ときおりスカートのひだを艶かしく蠢かせながら踊る三人の女のショットが挿入され、捨ておかれ届け先を失った暗号のような物語と旋律が10分強を漂いながら刺し貫く。なんとプリミティヴな映画なのか。それが注意力散漫で語彙貧困の愚か者に許された唯一の感想。そして呪わしい……(当然ながら同時に見事なまでのミュージックビデオになってもいるので今年こそはぜひSigur Rosあたりを一本手がけてみてもらいたいと思います。冨永作品をもっと観たい、やたらと観たい、ということに尽きるのですが)。


  で、どうやら最近はふたたびPV抜きでは音楽を語れない、ということになっているらしい……そう小耳に挟んだ(ポップスの話。嘘っぱちである可能性も否めないし語る予定は特にないので困らないのですが)。そういうわけで来週にはSalyuの1stアルバムが出るようなので買って、買って、PV集のリリースを心待ちにしようではないか(なぜかシングル「Dialogue」だけはエンハンスド仕様なのだけど。中途半端だなあ)。まあこれは冨永氏も映画も関係ないただの意味不明のPVではあるのだけど、「彗星」とかわけもわからずただ目が離せないし夢中になってしまう、絶対に、是が非でも、いや、もちろん声だってすばらしいしサウンドプロデュースも真っ当でいい仕事だとは思うのだが……しかし本当はこれは呪いの音楽に限りなく近いんじゃないか、音を聴く限りではその痕跡もないけど表面を丁寧にこすればこびりついたその予感が指先で確認できる。洗面所でさっさと洗い流してしまうに限る、そんなもの。