映画なんていますぐ滅びよ


  映画を観る環境、なんてあってないようなものだ。そしてないように見えてやっぱりない。ホラー映画はおそらくもっとも純粋な映画の成り損ないだろう、そして映画の呪いはフィルムに焼きついていて、フィルムを介して人々に伝染していく。だがもはやその呪いはほかの呪いと見分けがつかず、とうに消えたのかいまなおとりついているのか弱っているのか強まっているのか判然としない、まさかはじめからそんなものなかったのではとも思わせるがいまだ死に損ないが隅っこで蠢いているのだからやはりそれはあったのだろう。映画ファンなんてものは存在しない、だけどシネフィルとかいう生き物だってそう思いたい連中の都合によるつまらないでっち上げなのだ、熱があり、その方向へ光が射し、一断面が照らされ、浮かび上がり、寄り集まったかと思えば曖昧さに覆われ、かすみ、熱を放ちながらまた散り散りになる。その場所がたまたま映画館であり何たらシネマであったのは未練たらしく残る呪いのせいか、偶然か、誰かの陰謀か。いずれにせよそこで見たことなんてわざわざ言い募らなくてもいい。ましてや公開された日記なんぞで。その環境を。誰だって同じなんだ。


  蓮實重彦が一日目最後の講演で「ワイズマンは37本の映画を撮った」といっていた(……と思う。数に間違いがあるかも)。真っ先に浮かんだのはR. W. Fassbinderだ、ワイズマンと肩を並べられるのは彼しかいない。そしてワイズマンを観ながらそこにファスビンダーを、ファスビンダーを観ながらそこにワイズマンを見る。ただそうやって並べてみる。彼の生前の原稿を集めた『映画は頭を解放する』は何が何でも読んでおくといい。あまり身近でない単語にまみれながらゴツゴツとしながら手ごたえの薄いその感触を味わうといい。ファスビンダーはまだ死んではいない。あなたがファスビンダーなのだ。きっとそうなるのだ。そうならずにはおけないはずなのだ。