アニメの感想を羅列

◎『涼宮ハルヒの憂鬱』(と打っていたらたったいまATOKに自動で単語登録されたヨ!今後はもうBSキィでわざわざ「りょうみや」と打ち直さなくても済むネ。ところでテリオスのHPが重すぎなのは仕様ですか?まさか『Chanter』大人気なんでしょうか。まあこっちはもう早くも秋に向かって堕落する準備はOKなので好きにしてくれても構わないのですが……)
 第9話「サムデイ イン ザ レイン」はいままででもっとも好ましいエピソードだと思った。感動的なまでに話に内実がなく、誰も何もしていない、ただすれ違い、すれ違いざまにそっと触れ、しかし互いはそのことに気づかず、皮膚に残ったその「感じ」だけが薄く持続しながら暇つぶしのごとく時間の層にたまった埃をそっと指でなぞってみたりする。途中で部室にひとり残った長門有希が遠く廊下から漏れ聞こえる演劇部か何かの練習風景のみをBGMに綿矢りさ蹴りたい背中』をただ黙々と読み継ぐ場面が数分間断続的に挿入されるのだけどこのまま終わりまで彼女が本を読みつづけてくれるだけでじゅうぶんだとさえ思えた(ちなみに前半では本棚に阿部和重『グランドフィナーレ』の表紙もうかがえた。おそらく今回が実質的な第14話=最終回だということを示唆するものだろう……などと考えるまでもなく前回の予告ではっきりと「第14話」と明言されてはいたのだが)。ちょっと『フタコイ オルタナティブ』の中盤を思い出したりもした。たしかに思わせぶりで内容がなく油断すると小手先に終始しがちだという共通点もある。ところで(『ハルヒ』と関係ないわけではないが)ずっと思っていたのだけどもうそろそろ何らかの作品を「おもしろい」かそうでないかという判断軸で評価するのをやめようじゃないか。根拠はないし説得の言葉も用意していない。だから口にしたあとはうなだれるのみだ。ここである作品に接続し、またそれを積極的に保ちつづけるということは対象がどのようなカテゴリーに属するものであれ受け手が何らかのおもしろさを見出しまた感じているからなのだ、などと言ったところで……そこまで意味を拡張してもはじまらないしおもしろさそのものを否定するつもりとてない。ただおもしろさ(あるいはその不在)に対して妙に無抵抗だし、わがままが目立つ。そしてそれをあまりにたやすく交換しあっている。山田花子は公的な場における人間の食事行為がいかに醜いかということを繰り返し漫画の中に織りこんでいた。自覚なき文化の垂れ流しがだらしなく共有されまさにそのことによって連帯する。実は批評脳だってそこから生まれる。「批評がないジャンルは二流だ」という思いこみをスローガンに、しかしまず、そしてつねになされるべき批評という言葉への検討は徹頭徹尾欠いたまま、ゲームやライトノベルに文学や思想その他諸々のジャンルが適当に鍛えてくれた概念や用語や図式をそのまま当てはめそこに天皇制や時代の閉塞感をこじつけて一丁上がり。そのくせ言及するのはおそろしくタイムスパンの短い限定的地域の、ゆえに必然的に似たり寄ったりの固有名詞ばかり。ドゥルーズフーコージジェクに触れておけばとりあえず安心、といういまだ治癒せぬ現代思想病にも酷似。読者層をあらかじめ絞り込んで書いているのかも知れないがそれならばあまりに読者を馬鹿にしすぎだしだって本当に馬鹿ばかりだもんと言うのならばその馬鹿にきれいに収まりはみ出すことのない批評でいったい何を支え、何を変え、何を生かし、何を殺すつもりなのか。おもしろさの再生産にしかならないではないか。なぜだか「批評が必要だ」と堂々と言って憚らないのはいつも決まって批評家ばかりなのだ。もちろん批評は必要だ。だからこそまずは彼らを「限界批評家」と名付け後ろ指を差しさっさとお払い箱にしよう。


 感想失敗。また書きます。