ストラットアップ、はじめました

 ちょっと前まで10ページ足らずの分量でありながら一話分相当でひとまず満腹感が喉元に押し寄せる尾玉なみえスパル・たかし』を気怠くやり過ごしたあとなお時間が許せばヤーン『十三の無気味な物語』の一編を読んでから床につくことが夜の習慣になっていた(というかなりかけのところで『キミキス』が発売されたためペースが狂わされてしまったのだけど(ところでこの手のシミュレーションゲームをまともに手に取るのは『Noel』の二作目以来だったと思うので軽々しく断言はできないが、しかし印象としてこのゲームほどグラフィック≒キャラクターデザイン(高山箕犀氏の手による)の重要性がのっぴきならないものはそうそうないのではないか。シナリオはおまけと考えていい。システムも無難。テクストはほとんど空気。難易度は高めかも知れないがそれもプレイヤーをより長い時間ゲーム中に留まらせるための余計な配慮だ。余計な、というのはならばそれに見合うだけの会話のヴァリエーションを用意すればいいということなのだがそれではプレイヤーががんばってしまうから結局ダメだ、やる気がなくなる瀬戸際のところでほどほどに手を休ませながら留めおくことで関係が開かれる。ところで高山氏は企画のどの段階から参加していたのだろうか。どこかですでに語られているのかも知れないがともかく確かなのはたとえどの時点からであれ彼がデザインに着手した瞬間はじめてコンセプトに息吹が与えられ、デザインがグラフィックとして提示されたときようやく「始まりがはじまった」。言葉遊びではない。学生時代の友人はかつて「言葉で遊ぶな」という書き置きを残して失踪したが、むろん彼が失踪する謂われなどどこにもないのだ。用意されたコンセプトに応じて納期に向かって描く……のはあくまで企画としての動き、範疇、観点であり高山氏はあくまでデザイナー、グラフィッカーとして曖昧なはじまりへと向かってひたすら仕事を重ねるしかなかったのだ。はじまりはいつでも仕事の結果として遡行的に形作られる。しかしはじまりをはじまらしめるための原動力となるもの、(この場合)ゲームのコンセプトはたしかに先に存在していたしそれは誰の目から見ても明白な運動の起点ではあったのだけどそれはただ運動の起点としてしか意味をなさず切れ切れの運動の断片や痕跡が波が波を運ぶかのようにただ継続されてゆくのが確認できるだけだった。描くことの全般を覆う手作業の孤独や宛てのなさを支え鼓舞したのはいまだ確定されざるはじまりとそれははじまりうるし何度でもはじまりえたという先取りされた事実の痕跡にほかならなかった。コンセプトはすばらしい。声も贅沢かつ適切で文句のつけようもない。だがそれもこれもこのグラフィックがあるから言えることなのではないか。もう「たかみちみたいだ」という言葉が口をついて出ることはあるまい(と反省を込めて。いや、『TLSS』と今作のあいだくらいにそう言っても差し支えない時期があったでしょう、絵柄変化の生成過程というか……)。要約すれば「『キミキス』にいらない子などいない」ということだけが言いたかったのだが。完全なる勘違いの産物でないことをただ祈るばかり……))。肉の神話、それがハンス・ヘニー・ヤーンの小説であり、嗚咽が喘ぎ血が骨を食い破り美しき両翼が手のひらにまみれた砂糖水の甘みを蹂躙する。あまりの生々しさの抽象に吐き気をおぼえるときもある、しかし薄ぼんやりと眺め、笑いを噛み締め、肯きを嗜み、片手で上品にしかしときに忘我の内に両手で貪り食べようとしていて気がつけば容器をひたすらえぐって指が黒ずみところどころ剥けかけているのを視認するのもまた快く、第一にカフカを、次いでクロソフスキーを召還し、『ディアーナの水浴』が読みたくてたまらなくなり、そして実際に読み、それから藤子不二雄の「ユリシーズ」にたどりついて一息をつく。これが一夜のうちに何週間分も断続的に繰り返され、また眠れなくなる。それは『キミキス』のせいでもあったりなかったりするのだけど。