まあ(いままで自分が)書いたものもよくないか知らないけどさ、それをこう一から十まで信じてね、でその上疑問があったら、その書いた人に解いてもらおうとか思って会いにくるわけじゃん。なんかねえ、ああ、つまらないことをしたなという感じが一瞬するね。だからもうよそうなんて思うわけだけどね。(……)なんていうかなあ。書いてる本人が書いてる言葉を信じてるかっていうと、そうじゃないんだよね。そこはねえ、こうちょっと、それこそ演技があるわけ。ところが人はそうは思わないんだよね。(……)やっぱりね、言葉にしてみると嘘になるっていうことがかなりあるわけ、ね。で、それは意識的に使うっていうこともできるんだけどね、そうすると、自分でやってるうちにこれが嘘かどうかっていうことが非常に曖昧になってくるな。だから、ある種の身振りのつもりでやってるのが、本当に、こう書いたために自分で信じちゃったりしちゃってね、やっぱり困るじゃない。

 思い立ってかつて生家のあった土地まで足を伸ばした。遠出するときとりあえず行きがけの時間しのぎとして薄い本を携帯するように心がけている……というかないと落ち着かないし万が一落ち着かなかったら困るので距離や交通手段、目指すべき場所やそこで過ごす時間の質などを考慮に入れてしかしたいていは出発する直前にあわてて何らかのものを用意するひまもなく部屋に築かれた大小の山や列からからひったくるように取り出して鞄に収める。今回は『アストロノート』だった。近ごろ選択に窮したときはだいたい松本圭二山村暮鳥になってしまう傾向にあるのだが以前はヴァレリィとか金井美恵子とかルルフォだったりしたのでさしたる意味はない。たまたま手に取りやすいところにあっただけだろう。つまり実際に部屋の中のある位置を占めていたということでもあるし指の動きと頭のある部分の刺激が連動していたということでもある。『アストロノート』はなんといっても「電波詩集」だ(格別。本当はてんで外していて恥ずかしく駄目駄目だと囁く声がありうっかり肯きそうにもなるのだが読んでいるとやはり格別としかいいようがない。裁定、判断の言葉や認識がその端から裏返り、裂け、腐り、しかし再生も新生も寄せ付けることのないまま決して現代詩とは似ることはなく、同時にもっとも目立つところに失格や落第の烙印を押されたなり損ないの現代詩として読むことのできる希有で格別な詩であり部分の詩である。表題作「アストロノート」は単体では再読がつらい瞬間がいくつかある。いや無数にある。あまりに見え透いていてわざとらしくて……だがあらためて詩集のなかに位置づけられることによってわざとらしさの意味は変わるし拡張される。没入を避けるために、仕組みへの感情移入から退け観照の低みまでいったん押し返すために必要な手続きなのだ。危険だから。意匠が抒情へと接続され、言葉は震えながら自身のふるえを定義する。その程度のものだがやはり易々とは触れるなかれ、なのだ。どちらかが必ず砕ける。血を見る程度で済めば運がいい。が、そんなひとがこの本を読んでどうするのか?とも思う。おとなしく詩誌を漁って「期待の新鋭」でも物色することをお薦めしたい)。暮鳥は彼の創作童話が収められていればなおよかった。真正面からまばたきする子供の眸に向かって語られたもので、どこが可笑しいのかわからないが思わず笑ってしまうし声に出して笑わなくとも常に微笑みは絶えない。山村暮鳥の人柄を偲ばせるものだ。