OL新案・まろびデリ

十九世紀が生のいくつかの側面に与えた組織的完全さそのものが、その受益者たる大衆が、それを組織とは考えず自然物と見なしている原因なのである。かくして、それら大衆が自ら暴露している彼らの不合理な心的状態が明確になる。つまり、彼らの最大の関心事は自らの安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じてはいないのである。彼らは、文明の利点のなかに、非常な努力と細心の注意をもってしてはじめて維持しうる奇跡的な発明と構築とを見てとらないのだから、自分たちの役割は、それらを、あたかも生得的な権利ででもあるかのごとく、断乎として要求することにのみあると信じるのである。飢饉が原因の暴動では、一般大衆はパンを求めるのが普通だが、なんとそのためにパン屋を破壊するというのが彼らの普通のやり方なのである。この例は、今日の大衆が、彼らをはぐくんでくれる文明に対してとる、いっそう広範で複雑な態度の象徴的な例といえよう。

 福岡市は博多駅近くの紀伊國屋書店にて絶版文庫本フェアが催されていたのでのぞいてみる。後藤明生『ある戦いの記録』、J.G.Ballard『奇跡の大河』を購入。数店が本棚やワゴン単位で出品していてそれぞれ設定価格がちがったのだが前者を購入した店は本の状態や厚さ、稀少さかかわらず一律¥1,280とこの会場内ではもっとも高値で、さすがに品揃えはほかの店よりも量として充実していて面白かったようにも思えたのだけどやはり錯覚だしこういう十把一絡げの値段設定の仕方には疑問が残る。そういえばつい先日岩波文庫で重版がかかったばかりのEvelyn Waugh『大転落』なんかがきれいな状態ではあるものの定価を超えたいい値段で並んでいたのだけど調べてみると案の定紀伊国屋のフロアに新品が置いてあった。知らなかったのか、知っていて高く売ろうとしていたのか、単に価格を書き換えるのが面倒だったのか。いちいち細かな管理などしていられないということだろうか。難波のとある古本屋のおばあさんは古本の価格設定をするときはweb上で必ず相場を調べてそれより安い価格をつけるよう心がけているという話だった。もはやそうしていかないとネット古書店には対抗できないということらしい。その店ではベケット、サロート、バルトークの評伝を買った記憶がある。いずれも買う予定のなかったものだ。ベケット以外はまだ読んでいない。ちなみに前述の後藤明生の横には小島信夫の『女流』も置いてあって迷ったのだけど今回は断念しました。価格の正当性が自分の中の情報や判断の地層と折り合いがつかない限り買うことができないのはまあよほどの熱狂的酔狂者をのぞけば当然誰しもそうだろうし決して納得ができないわけでもなかったのだけど同じ店の同じ本棚の同じ列の隣同士に並んでいたことに釈然としないものを感じて今回は見送った次第。ちょっと思っていたことがある。おのれの見聞の狭さ、浅さをわざわざ披瀝するだけに終わるかも知れないしそうなればそのほうがよいのだけど、小島信夫後藤明生が関連づけて語られている文章というものをあまり見かけないのはなぜだろうか。第三の新人内向の世代と戦後文学のなかで彼らはそれぞれ位置づけられる。こういうのはほとんど誰かの適当な思いつきでしかなく、ゆえに目の前の動きに視線を引っ張られるがごとく年代で区切られてしまうため、実は第三の新人のなかに早くも内向の世代が生まれていただとか内向の世代面して第三の新人が紛れ込んでいたとかいう話にはまずならないしそもそも緩くてほとんど無意味な分類なのだからなったってしょうがない。頓珍漢だったらちょっと指摘してやさしく諭してほしいのだけど第三の新人はずっと第三の新人で、内向の世代はずっと内向の世代なのだろうか。まあそうは呼ばれていない。『残光』が<第三の新人小島信夫の新作>と宣伝されていた記憶はないし後藤明生も同様だ。ではその分類はいったいいつ失効になったのだろうか?だって猫も杓子も十把一絡げだったJ文学とは明らかに一線を画す用法ではないか。ずっと狭く、恣意的だ。にもかかわらず場当たり的で曖昧だから話がややこしいのだ。系譜学は必要ない。小島信夫後藤明生を同じ時代に書いた同じ小説家として俎上に上げよということ。両者の作品内での目配せはもちろん、小島信夫にいたってはちょっとした後藤論みたいなものまで書いていなかったか。なにより両者に興味を持って読んでいる読者にとってそのつながり、関連性、呼応は明らかなのだ。現在の貴重な後藤論者のひとり渡部直己はどうも小島信夫後藤明生の下に位置づけて軽んじているような印象があるが(高橋源一郎に「なぜそこまでこだわるかちょっとわからない」とか言っていなかったか)蓮實重彦はどうなんでしょうかね……。