何度目かの挑戦か知れないが埒があかないのでとりあえず最近観た映画、買ったものなどについての記述を半年くらいは継続的に連ねていきたい。

 黒沢清『LOFT』。まず冒頭の色とりどりに煌めく湖のカットで『回転』を思い出した……が実はおそらくここには鑑賞時間上の歪みが生じていて、「その女は永遠の美を求めてミイラになった……」という映画の初めに流れる字幕や湖から引き上げられるミイラ=死体の垂直運動と停留の絡みから『ギフト』が頭をよぎったはずだし、豊川悦司の出演によって『レイクサイドマーダーケース』をも連想していて、そのいずれもが事前情報とそれによる漠然としたイメージと引き金として記憶に明瞭な痕跡を残した一状景と実際に目の前で進行しつつある出来事のなかで断片的に混在しながらあぶくのように表面に膨れあがっては霧散していたのだけど、たとえば劇中では中谷美紀豊川悦司の両者に視点が振り分けられるのだが前者が映画の側にいるなら後者は観客側にいて(そして極度の女性不信ぶりというか女性の女性性を執拗に避ける身振りは黒沢作品に散見されるものでつまり同時に彼が黒沢監督の側にいることをも示す)、『レイクサイドマーダーケース』ならばそれは役所広司の役振りであり、森の中に埋められた死体に振りまわされる様子、また生者と死者のあるいは現実と妄想の垣根が曖昧というかほとんど劇中で意味をなしていないあたりから『降霊』が浮かんできて、そのまま振幅の激しい演技をつづける豊川悦司に弾かれる形で『ドッペルゲンガー』が脳裏を横切りつつ焼却炉でゴミが押しつぶされながら燃えるからくりや湖からミイラを引き上げる時代がかかった安っぽくもおどろおどろしい機械の動作に顔を綻ばせる……映画は不自然なフラッシュバックや飛躍が随所に差し挟まれながらもいちおうは直線的に進んでいくのだけど鑑賞時間はまったく直線的ではなく、そのことによって映画に混乱した印象を抱いたとも言えるし、また映画がいかに混乱していたかが示されているとも言える。観ているときには画面内の動きや状景に没頭しながらもつねに気は散っていて、途中頭のなかではっきりと言葉にして「黒沢清はどこに行こうとしているんだ!?」とこの作品の行く末のみならず監督としての将来について思い巡らしてしまう瞬間もあった(悲観ではない)。しかし規則通りであり(映画の、というよりは黒沢映画としての『LOFT』の、ということ。繰り返すが豊川悦司は監督側にいるのであり、また観客側でもあるということはつまりいま行動しつつある現在の化身でありそれは常に過去の記憶(映画)に規定される。またこの場面、『スペース・バンパイア』というか『嵐が丘』的な大仰な愛の抱擁とそれに連続する出来事は事前に予告されてもいるのだ。ひたすら不気味で神出鬼没な存在感を発する西島秀俊は木を利用して中谷美紀といっしょに首を吊ろうとさえする)、あっけなく、また痛快さと腑に落ちなさを同時に受け取らされるような終わり方を目の当たりにしてしばし呆然としたあと、しかしすぐに再びこの映画のことが気になって仕方がなくなってしまった。難産であったことはありありとわかる。現代で怪奇映画がいかにして可能なのかという実験というか検証だったのかも知れないがそれを意図していたかは不明だし少なくとも作るなら実験や検証などせせこましいことをせずはじめから大まじめに怪奇映画そのものを作ってしまうだろうし作れるはずだ。しかしそうはならなかった。クランクイン前後あたりに宝塚映画祭で聞いた監督の話では女性主人公版『ドッペルゲンガー』しか想像できなかったのだけどいまはそうならなくてよかったという安堵と、しかしもっと厄介な領域に足を踏み入れたのではないかという危惧、不安をもおぼえてしまう。「わたしは絶対に成熟しない」というのは先日東京で行なわれた回顧イベントの名前だったと思うがこの宣言をはじめて目にしたのは『ユリイカ黒沢清特集における万田邦敏との対談で、そのとき『ドッペルゲンガー』の終盤あたりについて(この対談では「成熟」派だった)万田氏から厳しい突っ込みを受けていた記憶があるのだけど(ところで『グエムル 漢江の怪物』のアメリカ軍描写の適当さにはわずかながら感動をおぼえた。実際の事件に基づいた描写にもかかわらず本当に扱いがいい加減なのだ)今回の成熟との折り合いの付け方はずっと安易ではあるものの言い訳めいたものは切り捨てられまあ黒沢監督の照れ笑いだけが残ったという感じで、それはそれでどうしようもないとも言えるのだけどひょっとしたらこのまま成熟しない巨匠になりつつあるんじゃないかという予感の手触りも感じさせた。観終わったあとも気になる映画だし中谷美紀の女優としての良さ、美しさを(再)確認できたのもよかった。後半、部屋の中で安達祐実をスルーしてからの豊川悦司とミイラのシークエンスは名シーンだと思う。笑いをかみ殺しっぱなしでした。