吉増剛造の千原Jr.に似てきたる由

 音楽はどこに潜んでいるかわからないし当然あるべき場所にあるとも限らない。いまそこで鳴っている音とは別物として音楽は想像的なものでしかありえないし、音という名の運動、働きかけ、衝突、痕跡が消え、去り、誰もが忘れ果てたあとの学問、つまり音学と書き換えうるだろうし、秩序と方法に基づいた瞬間(を特権化しながら同時に解体する脱色された内発性)の気付きであるだろう。音楽は忘れるな!とつねに命じる。だが音楽は忘却の果てからやってくるほかない。そしてやってくるのではなくあらかじめそこにあったのが音楽でありそのことは音楽自身が立件し弁護し反駁し裁定を下してくれる。無罪。取り囲んで拍手をするのは聴衆の役割だ。その拍手の音を音楽は忘れるなと命じているのだ、そして聴衆は喜んで忘れていくのだ。


 XBOX360は「勝ちハード」か?……こういう言葉遣いに面接してしまうとつい「どうでもいいですよ!」と叫び出したくなるが本体の所有者としては看過しえぬ問いではある。しかし実際のところは関心が薄いし構っていられないというのが本音というか本音を反映した現実というか本音として採取された現実の捨象という次第。たしかに『カルドセプト サーガ』よりもハードディスクにあらかじめ仕舞い込んであったパズルゲームの方が楽しめしかもやめどきがわからずにずるずると一時間も二時間も時間をつぶしてしまう程度の中毒性があるのは困った事態ではあるのだが、『The Elder Scrolls IV: Oblivion』の日本語版制作が発表され、油断していると頭のなかで「私はアイドル」が無限ループしはじめあわや穴という穴から漏れ出そうな現状況下においてはすべて世は事もなし、それだけで賭けてみたというほどでもないが踏ん切りをつけた(決定の際にほとんど受け身の状態で流れるに任せる、という決心というか心固め。境界というものはたいてい気がついたら越えてしまっているものだ)甲斐があるというものだしそれに尽きるということもなく『DEAD RISING』や『ショパンの夢』などほかにも興味をそそられるタイトルが数本存在する(一部予定。ちなみに前者は昨日北米タグを取得して体験版をやったばかりなので勘弁してほしい。地下のおもちゃ屋さんでビームサーベルを手にとりさあどのゾンビに振るおうかと構えながら視点を定めているときにタイムアップ。ゾンビ版『POSTAL』だと勝手に思いこんでいたのだがぜんぜん違うじゃないか。当然か。銃で撃ったとき手許に反動が残るような感触、錯覚が……)のだから「ペイ」できているか否かという問いは愚問にしかなりえないだろう。そうねがいたい(だって大本命の二本はまだ開発中なのだから。予断は許されないというわけ)。


 うーん。今年は……