いつのまにやら一月も過ぎ去ろうとしていて特に早いとも遅いとも感じないのだがああ、過ぎ去ろうとしているなあ、と『遥かに仰ぎ、麗しの』の本校シナリオと分校シナリオを交互に読みつつとりあえずはようやく今年一本目の映画。『スキャナー・ダークリー』。ある特定の映画を見終わった際に胸の中に生じあるいは意識されしばらくはもてあます他ないこの一塊の名状しがたいつっかえ、しこり、いまだ存在しないものに対して馳せる郷愁の念とその耐え難い反復の予感は何なのだろうか。そのとき即座に実行に移すべきことはおそらく「その映画をただちに観返す」ことのみただひとつなのだろうが実際にそうすることはほとんどなく、それは時間の都合や料金との折合いにもよるのだろうがやはりただちに観返すべきではない、という命令をもそのしこりは孕んでいるのだ。『スキャナー・ダークリー』のラストは確かに胸を締め付け、見えるものを見えるままに留めず、見えるままに留まらざる見えるものを見えるものとしてすべて受け入れる感興を抱くほかなく、それは切ないと言ってしまえば切ないと言ってしまえそうだしそうつぶやいてしまったかも知れないのだが……しかし映画というのはそもそもその存在からして切ないものではなかったのか、あの刻まれ、回転し、照らし込むフィルムの薄さ、長さ、その尾っぽのように垂れた剰余はひとの手によって生み出され、作動し、観客の視線に焼き付けられ、一瞬だけその痕跡を残してすぐに消え去り、音として、光として分解され、それでも映写機だけは音を立てつづけているような気がしてしまうのだ。観ることによってしか、その時間、ただなかでしか映画を所有することができないという事実は、その思いは……やはり、「切ない」。

 ところで映画とはスクリーンに見えるあるがままのものでありそれ以上でも以下でもないのだからこの映画の隅々にまで施されたアニメーションのような画面処理の必然性を問うことに意味はない。そのまま受けとめればいいし受けとめ損ねたのならば放っておけばいい。この映画の表現形式の必然性を疑わしめたのがほかならぬこの映画だったという当たり前のことをゆめゆめ忘れぬことだ。本当に内容は地味で、ひたすら嬉しく、深々と沁みる。機会があれば再度できれば劇場で観たいし何らかの形で必ず観ることをここに誓おう。ギリアムが手がけるという噂も遥か昔にあったのだが実現しなくて本当によかったです(って誰か言っていなかったか。昨年は『ブラック・ダリア』におけるフィンチャーデ・パルマの監督交代も大成功というか大収穫というかしめしめという感じだった)。