あ、そういえばダムタイプインスタレーションの名残が「パルティッタ」には漂っていて、トーク終了後明るくなってから座席の前に横たわっている長い箱形のスクリーンに近寄ってみたらうっすらとその上を映像が明滅しながら滑り徐々に光に吸い込まれていこうとしていた。映像ってこれ関連のことだったのね。やはり見たかったなあ。というわけで高橋悠治×浅田彰 反システム音楽論――ダイアローグとプレイ。今回のイベント自体が造船所跡という臨海のランドスケープのもと、自らを規定しながらひたすら臨界へと至るほかないモダニズムの漸進的運動を滞留と実践による再検討の俎上にあげ異なる形に開いていくとかいうたぶんそんな感じだったりしちゃうかも知れないと思うので、つまりあらかじめテーマを設定してそこから付きつ離れつ旋回していくのではなくむしろその場で何かが行なわれ、すなわち高橋悠治が演奏し、浅田彰がそれを受けて話をするというその「事」だけがとりあえずは重要なわけだし、むしろその場において浅田彰は邪魔だったりするのかも知れないのだけど(あながち謙遜というわけでもなく「ピアノだけを聞きたいだろうがどうかご容赦ねがいたい」と一曲目のサティが終わったあとに浅田氏いわく……しかしまあこのとき自らの容姿に対するほとんどお約束的な揶揄を冗談に含めていたのだが、たしかに二十年前とほとんど変わらないと言っていいくらい受け取る雰囲気が若い)、実際のところ言葉と音楽によるチェスプレイは詰みこそしなかったものの浅田氏の反復したり前の主題に引き戻りつつ変奏され明快な地点にソフトに着地するその語り口の音楽的といってもよいほどの引き絞られた抑揚とリズムに、しかしうかうかと乗ったりはせず、呼吸を継ぎながらも微妙にずれつつ、ちぐはぐに、空とぼけるかのごとく浅田氏の敷いたレールを踏み外していく高橋氏の難渋で優しげな応答により心安らかなれど目の離せない譜面展開を見せたと思うThe Works for Piano Vol. 7(で、なぜチェスかというと浅田氏が最後に今回の談話のすれ違いぶりを自らの至らなさに引きつけて喩えに出したから……というかそもそも1940年代にマルセル・デュシャンマックス・エルンストが開催したチェスに関する展覧会に招待されたケージはチェス盤にびっしりと楽譜を連ねた絵画作品を出品したのだけど、どこかの個人にあっという間に買われてしまいその後数十年間行方知れずとなって誰も見ることができなかったという話を高橋悠治がしていたのだ。で、2000年に入ってイサム・ノグチ美術館での回顧展の折に作品が発見され、「実はこの楽譜って読めるんじゃね?」みたいな話になってまさにそれを実践するにもっともふさわしい人材であるところのマーガレット・レン・タンの手によって採譜され、"Chess Pieces"というミニマルに反復しながら音が吸い寄せられていくまさに21世紀のお掃除音楽と呼ぶにふさわしい……かどうかはともかくケージの目録に新たな一曲が追加されたのだった。試聴はHMVで。だから浅田氏が「生で聴くのは初めて」なのも当然。今回高橋悠治の演奏で聴くことができたのはこのうえない幸運であり至福の体験だった。サティにはじまり高橋氏の手によりモチーフが抜粋、反復、展開されたバッハ、クルタークの俳句的、日記的楽曲たち、戸島美喜夫編曲のカタルーニャ民謡『鳥の歌』で締め、と……)。

  演奏や談話の途中に眠りこけているひとの背中や横顔がちらほらと視界に入ってきたがまあ無理もないなあとは思った。それくらい緩やかで優しげな時間が流れたということなのだろう。高橋悠治クセナキスとナイアガラまでドライブした話が面白かった。ここで語られたエピソードはタイトルの「反システム音楽論」に連なるものとしてのちのち音楽のシステム化とファシズムスターリニズムとの並行性、音楽史の読み替えなどの話につながっていくし、単にそれを聞いて浅田彰がぎょっとしながら「運転はクセナキスが?それは危険でしょう」と突っ込みを入れたのもいかにも愉快だった(クセナキスは左目を失明しているので)。