Bedlam再び妙にはまっているのがこのCRAZY PEOPLE『Bedlam』で、トチ狂って傑作と叫んでもイマなら悔いはない。買ったときはモンドとかラウンジ音楽のコーナーにあったような気がするのだが(何もかもが)抜けきっているのでどうしていいのやら。いつもの悪癖に倣ってビーチ・ボーイズでたとえるなら"Amusement Parks U.S.A."間奏のごとき狂騒が延々とつづいていると思ったら死の世界の一歩手前まで連れてこられていた、という感じでしょうか(6曲目"Head Games and Other Assorted Crap"の最初の方が"Barnyard"ぽかったりします)。基本的に遊園地やサーカスのような楽しげな音楽がやや躁状態で疾走していたと思ったらいきなり歩き出したり、スキップしたり……で、その合間合間に「ボンバボンバババ、ボンバボンバババ、with crazy people……」といった調子ッ外れで息切れ気味のおっさんの歌声が割り込んできたり、正体不明の歌や語りのコラージュ、赤子の声や女の悲鳴や遠くで浮遊する薄気味悪いコーラスや銃声やニワトリの鳴き声が挿入され……頭のネジが外れたルー・リードといった風情の悪夢のごとき弾き語りで爽やかにアルバムは締めくくられる。ちなみにケースの裏側には《a sort of moon-age"Sgt.Pepper"》という記載が見受けられる。発売は1968年。どうやらキーワードは「宇宙」と「サイケ」のようだ。しかもひとりの人間の誕生からその身の終焉までを描いたコンセプト作品であるらしい。なんか音は聞いたことないけど大槻ケンヂが昔エッセイで取り上げていた小魔神による「ロックンロール大魔神」が頭をよぎったのだが、いま聴いていたらやっぱり傑作だったので発端や事の実情はどうあれそんなものとはまったく異なると断言しよう。今後は60年代ガレージ〜サイケを概観するならこれだ的一枚としてひとに紹介することにします。

 シオランの著書を膝のうえで開き、ときおり目を落としてその文章を、極小の取りまとめにして小宇宙を成す断章の片を辿り、拾い、散り撒きながらアニメ『D.C.II〜ダ・カーポII〜』などを視る。何でもいいが、たとえば《不幸にして、馬鹿馬鹿しいという思いに苦しんだこのとのない人間、深遠な思想を繰り広げるのはこういう連中だけだ》、《もし私が盲になったら、空を行く雲をもう白痴然としてあかず眺めることはできない。これこそ私にとって最大の困惑事であろう》、《おかしな夢を見たが、こんなものをぐずぐず考えようとは思わない。人によってはこと細かに分析する者もいるだろうが、これはとんでもない間違いだ! 夜をして夜を葬らしめよう》……直接内容と関係なければないほどいいし、ふと親和する瞬間があってもかまうまい。場面とちぐはぐな映画の字幕を拾うような感覚。『さよなら絶望先生』みたいに(面白いか面白くないかはさておき)ひとときたりとも目の離せない内容だったらそんな余裕などないだろうし(しかしそもそも『絶望先生』に面白いも面白くないもあるまい。原作からして「読むか、打ち捨てるか」。そこに判断の入り込む隙はない。太宰治のようなものだ。だから『絶望先生』なのだ、ということはないけど。ところで最新刊の紙ブログ(=本編)の内容が薄かったように感じたのだがやはりそれなりに忙しかったりするんだろうか。せっかく二期目放送が決定したんだし(DVDが三話収録の時点で怪しんではいたけど)この機に乗じて没になったカレンダー企画が復活してくれないかなあ)、単につまらないアニメは観る気がしないし……とはいえそれがダカーポであったことにはさしたる理由もなく、特筆すべきこともとりたててない『To Heart』以来のパターンに則ったほどよい環境アニメで、なんとなく録画して、翌日見て、一部人物の造形に辟易しかけながらもつまみかけで封をしたまま一晩寝かせていたお菓子に手を伸ばすかのようにシオランをつまんでみたらすこぶるいい感じだったというにすぎないし、そういう本とアニメを従属関係に置くことなくそのどちらをも相乗的に楽しむというやり方というか状態はいままでも数度ならず経験してきたことだし、時間制限のなかやり繰りをしている人々に囁きで広がる程度には推奨していきたいくらいだ(あくまで小説や漫画は片方がもう片方に従属してしまうおそれがあるので避けた方がいい。『ハドリアヌス帝の回想』とか『ハザール辞典』だったらよさそうだけど……。箴言集や神話なんかは無難で可ですね)。