先月観たポール・トーマス・アンダーソンゼア・ウィル・ビー・ブラッド』は観客を幕引きと同時に起立と快哉喝采に駆り立てる作品だったとは思う、実際には腰を浮かしかけながらも緩慢に喉を上下させるだけでそのまますぐに腰をおろしたのだけど(シネコン形式の劇場だったし、休日のお昼すぎにもかかわらず客少なかったし、考えるまでもなくそんな空気ではおよそなかった。まあそもそも引っ込み思案が深く根を張って身体が引き攣りがちなのだが情けないことに)。圧倒的な傑作かどうかはともかく、確かに圧倒はされた。しかしこの功績/責任は映画自身ではなくおもに主演俳優に帰されるべきもので、精緻な計算と直観により構成された画面に充溢する真摯きわまりない映画への取り組みとそれに対する確信にくらべれば圧倒性への意志はきわめて希薄なものでしかなく、ひょっとしてあの何気ない言葉の端々や身振りに感情の志向性のようなものを滲ませてしまう主演俳優の熱演ぶりって監督にとって実はちょっと計算外だったんではないの?とか穿ってしまいそうにもなるし劇中何度も「んもう邪魔だよ、ちょっとどいててよ」と思ったことも事実だがそんなことは冒頭三十分の前にはすべてどうでもいい些事となる。この作品はあそこに尽きる……というと問題ありだろうが、悔いはない。実際には五分くらいだったのかも知れない。あるいは一時間だったといわれても納得してしまいそうだ。音、光、形、動きの不協和音とその持続。映画の中のどこにも定着しえない時間。個人的体験に照らしあわせれば十年ほど前に心斎橋で観た想い出波止場のライヴに近しい感覚でもあった。

 ところで柳下毅一郎は『シネマ・ハント』巻末に収められた樋口泰人との対談で『マグノリア』について《つまりあれはあり得ないことが起こるのが映画だと言っている》《必然性なんて映画には必要ないんだってことを、真っ向から断言してる映画なんだ》と述べている。そこに異論はない。つまりあの映画は確かにそういうことを何憚ることなく言い切っているし、映画とは間違いなくそういうものだった。だがそれにしてもラストのあれは語りすぎではないかと思うのだ。明らかにこの映画はあの一瞬の数分間にわたる持続を際立たせるために存在している。そのためにフィリップ・シーモア・ホフマントム・クルーズくらいしか見所のない中途半端な群像劇を二時間以上観客に強い、その引き延ばされた退屈さの裏で根拠なき説得性を準備し、まんまと奇跡をお膳立てする。あまつさえわざわざナレーションか錯時的な心内語かなにかで「それは起こった」みたいなことを言わせていなかったか。途中のまったく異なる場所にいる無関係の登場人物たちが唐突に同じ歌を口ずさみだすミュージカル・シーンは感動的だが、最後のあれはいささか過剰で、わざとらしい。もちろんあくまで「きわめて映画的な」わざとらしさだから嫌になるのだ。とはいえそれを経てこその『パンチドランク・ラブ』であり(特に一撃必殺大号泣ものの冒頭)、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』なのだから別段文句もないのだが。(付け加えておけば作品として肯定しがたい、つまらないというだけであのシーンそのものは見事なものだと思う)