はじめての廃物利用(承前)

 まあ……「『CLANNAD』は人生」というフレーズがあって、これは当該作品に対する匿名子のざっくばらんな見解を俗情と結託する形で意図的に誤読することによって生まれた、ほとんどナンセンスといってもいいほど解像度の粗い、ひたすら流通することのみを目指されたかのような安易きわまりない揶揄なのだけど、では『Kanon』は、『Air』は、となるのもまた人の心理であって、いちおうそれに対しては「『Kanon』は奇跡」「『Air』は芸術」というこれまた精細の欠くフレーズが用意されているようで、そう考えると『CLANNAD』に関する一文は即興的産物ゆえに(ある層の仄暗い部分、あるいは意地悪な心性に訴えかける)キャッチーなものが誕生したのだなあ、と一定の感慨を得るに至ったのだった。で、自分ならどう言うのかというと、「『Kanon』は構造」「『Air』は神話」「『CLANNAD』はシステム」と、まあこうなるわけだけど(ちなみに『神話が考える』って本は未読)、『Angel Beats!』を観てしまったイマとなってはこれこそがシステムだよなあ、それも徹頭徹尾、と思わざるを得ない。

 で、この駄blogで五年ほど前に以下のごとく書かれている。

(いくらそう見えたとしても)少なくとも彼は死やそれにまつわる悲劇を主題や結果としたことはない、それは過程であり、否応なく起こり、しばしば読み手を陰鬱とさせもするがしかしそれは単にそういう物語であり、それがすべてで、起こってしまったのだから仕方がない。

 こういうことなんだけど、ある人々にとってはそれこそが不謹慎であり、無理解の証であり、許しがたい、デストロイ、となるのは致し方ないことではあるし、そのへんのところを擁護するつもりはない。正直、叩こうと思えば際限なく叩けてしまうのだろうが、同時に完膚無きまでに叩いたところで作品の命脈を絶つには至らない、というのはいちおう現状が示してはいるわけだ。南無三。

 それで『Angel Beats!』では薄っぺらな(比喩ではなく、設定としてそう記述、言明化された)世界で、もうラジオドラマでもいいんじゃないかというくらいに徹頭徹尾システムの話ばかりをしている。そういえば昨日引用していないtweetがあった。

  1. rakanka Angel Beats!ってたぶん打ち合わせではすっごい盛り上がったんだろうなあと思わせるので、いっそ打ち合わせをそのまま放送しちゃえばよかったんじゃないですか。脚本段階で削られたという大量のギャグだって活かせますし。作画一万枚とやらは他の人に譲ってあげてください。
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 だいたいこんな感じ……これ自体は戯れ言だけど。で、うざったらしいけどもう一個引用。

  1. rakanka 西田亜沙子氏の一連のtweetで同意できるな、と思ったのが「気分でしかないじゃん」というもの。ただこれはキャラの気分とも作家の気分とも言い難いものではあるわけでして。「俺の考える作家性」という補助線を引きまくるのはダメにしても、謎本的な過激なテクスト還元主義も趣味じゃないです。
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 この「気分」というのが麻枝氏の作家性の正体なのだと睨んでいる。どこかのレビューで氏に「神話プログラマー」という呼称が与えられていたようだけど、それは電脳世界を模した『Angel Beats!』の箱庭世界に過剰に寄り添った表現のように感じられるので、ここではキャラクターたちの背後に憑いたシステムとしての気分、という表現を採りたい、と。神ではなく、さりとて神の死でもなく。気分として分配されたシステム。

 ――まあひとまず最終回の放送(関西では明日深夜だが)に間に合わせる、という意味では、こんなものかしら。みんながあまりこのアニメの話をしなくなったころにちゃんと書きたいね。ところで近ごろ内田樹村上春樹論(?)と麻枝准・担当シナリオとの親和性が一部で取り沙汰されていたようで、正直言って両者ともにあまり好んで近付いてこなかった身としては遠巻きに斜め読みするしかないという感じなんだけど、どうなんだ……。まあいいや。一度読んだらどうしても意識して、おそらく何も書けなくなっちゃうからなあ。駄文が減るという意味ではその方が地球に優しいのだろうが、別段地球に優しくあろうとは思わない。ということで廃物利用によるリハビリテーションを今後ともつづけたいと思う。