流れに流れたよ

 んー、つまり「呪縛されているのはチミだよ、チミ」ということなんだけど、すなわち作家という病はなく、素人分析家の心の安寧のためだけにテクストが細部に還元されることなく無数の部分に切り分けられ、摘みまわされ、いったん手術台のうえに並べ置かれたあとすり鉢に放り込まれゴリゴリと潰されつつ、作家は作家であり、作家的宿命を負い、マンネリズムに貫かれ、それでも主題の周囲を旋回しつづける夢狩人……そんなつぶやきまで飛び出すとあってはもう病としか言いようがないのだが、しかしそれもまた無理からぬ話ではある。だがしかしやはり呪縛されているのは、問題があるかないかはともかくとして「わたしたち」なのだ、ということはくれぐれも銘記しておこうじゃないか。この辺を極端に先鋭化させると福田和也の「現役作家が全員死んでも困らない」という発言に行きつくわけだが、それもまた良し。作家ひとり殺せぬ作家論など畑の肥やしにもならない。そもそも作家連中だっていつまでも「一機」というわけではないのだ、自らの類似形を引き連れ、オプションをまとい、実はとっくに周回さえしているのかも知れぬ、つまりトニー・スコット『デジャヴ』のようにだ。作家は神にあらず、さりとて人間にもあらず。現象だ。ボウフラだ。青白い末尾の経験論だ。温存されし土踏まざるだ。だから早期発見・早期治療の数字的マジックになど誤魔化されることなく、病を見つめ、病と生きよう。病と対話は……やめとけ。