語るはアニメばかりなり

 いやー、まあ、例によって『けいおん!!』だけども。やっぱり思うのは「作品を観ようよ」ということに尽きる。視覚的ではない、思念や観念上の記号操作といった事どもについて穏当に考えを巡らしそれによって自らを慰撫し、他人に話しかけかつ適切に説明し納得ずくに持ち込まんとする際に視覚的比喩やモデルを用いることのまずさと有効性についてはまあいいとして(BMPをJPGに圧縮してメール送信し、それを16色環境で展開する……とかそういうの)、つまり『けいおん!!』は、放課後ティータイムの面々は、そこで醸成される空気はあくまでブラウン管もといモニターの向こうに存在しているわけだ、どう手を尽くそうとその距離の絶対を思い知るばかり、中の人や二次創作など接触のチャンネルを増やしたところで何も変わりはしない。だったらせめて、いや、まずはできることのいちばん最初のこととして、ちゃんと画面を観た方がいい、歪ませず、裏返さず、触れず、(規範を)持たず、(文脈依存のコミュニティを)作らず、(無粋な批評など)持ち込ませず。そういうふうにできているわけだ。『けいおん!』と『けいおん!!』のあいだにある設定的矛盾も、おまえ昨年の梅雨はどないしとってんという唯に対する至極当然のツッコミも、足並みが揃ってるんだか揃ってないんだかわからない作中の象徴表現も、突如ぶれはじめてはあっさり役割に収束されるキャラクター性やリアリティ・レヴェルも、まあ、すべてはそこで起こったことではないですか。え、そんな緩さやいい加減さを許容し、あまつさえそれが商業的結果に結びついたとしたら業界の、作り手側のリテラシー低下につながる? しかしそれは『けいおん』ではないわけだし、誰も彼もがそういう作品を作ろうとしているわけではないだろう。もしなし崩し的にクオリティ・レヴェルの液状化現象が多発し地盤沈下が発生するというならばもうそんなもの崩壊に任せておけよ、としか言いようがない。『けいおん』と関係のない話をするなよ! というわけだ。


 さて、この論は元々が転倒している。というのも作品とは鑑賞するものである、モニターの向こうには決して触れえない、なんていうのは誰だって知っていることだからだ。だが『けいおん!!』にあってその常識は通用しない……というか、それでもなおある種の欲望が駆り立てられているように感じる。この作品がどのように見えているのか。たとえばtwitterでちょろっと引用したが、宮沢賢治の『春と修羅』冒頭。

風景やみんなといっしょに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにたどりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です


 パッと思いつく限り、もっとも似ているのはこういう感じ。観念の肉体をまとい、偽物の情緒を交換し、過去にも未来にも開かないうすら楽しい時間を重ねる。それをひたすら観ることで儚いがそれゆえに強固な空間の醸成に一役を買うことだってできる。たとえ局所的現象であっても、普遍とつなげることが出来ないわけじゃない。そういう次第。