ツンデレなんて(言葉)だいきらい

 ある死生観について。「彼女の死を(わたしが)看取る」ということ。ここで呈示されるのは生がツンであり、死がデレである、という頭の痛くなるようなツンデレ観だろう。それを支えるのは彼女の死を観測するのは他ならぬ「わたし」である、という特権性。だが彼女の死は彼女自身のものであり、「わたし」は他ならぬ彼女の死のイメージを所有することしかできない。図らずも所有という観念の根底にある不可能性が歪な形でここに露出する形になるわけだ。彼女という存在の所有不可能性を、彼女の死の所有不可能性において、奪われ、二度と戻らないという無力感と(そして物語風景として俯瞰された)悲しみの愉楽によって存分に味わうことが許されている。デレが見出されることでツンが遡行的に捏造されるように、死が見出されることで生が遡行的に立ち現れる。しかもいつだってそれは砂粒のごとく両手の指から零れ落ちる、ときたもんだ! 「彼女の死」はいちど死の一般性へと大きく振られ、そのまま「わたし」の特権性を逆説的に保存し、匿いさえするだろう、と、ひとまず。